〈仕事のビタミン〉外村仁・エバーノートKK会長:16

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新型iPadの製品発表があったサンフランシスコのイエルバ=ブエナ=センターフォーアーツ=筆者撮影

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米アップルが7日に発表した新型のiPad

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外村仁(ほかむら・ひとし)1963年生まれ。東大卒業後、米大手コンサルティング会社に入社。その後、アップルコンピューター・ジャパンに転じ、マーケティングなどを担当。スイス国際経営大学院のMBAを取得し、シリコンバレーで複数の会社を立ち上げる。10年6月から、エバーノート日本法人会長。河合博司撮影

■過去を覚えすぎている自分を反省2

 ここ数日は、サンフランシスコ市内がざわざわしていました。Apple(アップル)が新製品を発表するので、数日かけて建物をイベント用に改装するのです。一つの製品の記者発表会のためにここまでやるという態度は、スティーブ・ジョブズ氏が亡き後も相変わらずです(写真は発表会の前日に撮影)。

 3月7日に発表された新製品はほぼ事前の予測通りでした。人間の目が識別できる限度を超える精細さと言われる画面を搭載し、フルHDテレビよりも画素数の多いiPadが発表されました。周辺機器も、関連するソフトもすべてさらに高い解像度に対応しています。また、LTEという第4世代の高速無線ネットワーク(4G)にもアップル製品として初めて対応しました。

◆インフラ投入に変化の予感

 アメリカは日本に比べると高速無線通信ネットワークの敷設も利用も遅れていましたが、今回の新製品でLTEが一気に普及を開始し、モバイルのインターネットの方が家のネットよりも速いという逆転現象があちこちで起こりそうです(ちなみに、日本では光ファイバーを使った高速ネット環境がオフィスでも家でも当たり前ですが、サンフランシスコ市内にある私の家でも、光のネット環境はありません。ほとんどの家がケーブルインターネットか、ADSLをいまだに使っているのです)。

 しかし考えてみると、日本に比べるとかなり遅いネット環境しかない中でも、多種多様なアイデアに基づいて、数多くのベンチャー企業がうまれてきたわけです。オフィスを離れて自由自在に使える超高速のネットワークが突然やってくると、またIT産業が大きくジャンプするかもしれないという予感がします。

 アイデアと人がひしめいているところに強力なインフラが投入されると、これは効きます。次のiPhoneも当然LTE対応するでしょうから、今年の後半には、シリコンバレーのモバイルネット環境は一変していることでしょう。

 今日の発表には、それ以外にも産業構造を大きく変えそうな発表が混じっていたのですが、それは次回実機を触った後にご紹介しようかと思います。

 さて、シリコンバレーの友人に「お前は昔(といっても10年や20年程度ですが)のことをよく覚えているな、思い出すな」と言われてしまう私の話の続きです。

 「それは“全てを記憶する”がモットーのエバーノートを使っているのでよく覚えているのさ」と切り返したいところですが(笑)、まだ現在のエバーノートのサービスが生まれて4年足らずなのでこれは誇張です。

 同世代で比較的似た教育を受け、同じような仕事をアメリカでしている人と、いくつかの事柄に関して比べてみたのですが、やはり昔の話や経験を例に出すことが相対的に多いように思います。「年寄りは昔話が多い」といいますが、それだけではないですね。

 一つには、私が日本で受けた記憶中心の教育があるのではないかと思います。歴史に始まり、科学も、倫理社会も暗記中心でした。昔の話を詳細に至るまで正確に覚え、解答用紙の上に再現する能力をかなり小さいときから繰り返し訓練してきました。

 さらにいえば、どれだけきちんと覚えているかの価値の高さは、記憶中心の試験結果だけでなく、卒業後の社会人生活でも延長されていたと思います。

◆「物知り」が尊敬される日本

 つまり、ディスカッションやビジネスの世界での判断においても「過去の事例はこうだった」「過去には似たようなことをやってこういう失敗をした」という話をすると、日本では一目置かれることが多かったですし、恐らく今でもそうでしょう。

 簡単にいうと、物知りは日本では尊敬されるのです。

 過去の事例や失敗・成功体験に頼るのは人間の本能の一部でもあります。私を含めた右肩上がりの時代やバブル期を過ごした日本人は、記憶の良さも手伝って、この傾向がより強いと思います。

 実際私がアップルで働いていたとき、去年はこのイベントで何をしたかと問えば、日本人の同僚に聞くとすらすら言えるのに、本社の人はあまり思い出してくれない。私は小さな優越感すら感じていたことを思い出します。

 これは教育や文化の差だけではなく、時代の差もあります。公平に見て、20年ほど前までは、昔の経験がストレートに役に立つことが圧倒的に多かったと思います。ビジネスモデルでそれほど新しいものはうまれず、基本的に改修や改善を積み上げ、気を使ってきめ細かくやれば、先人よりもよりいい仕事ができる、より上手にできる、という基本法則が多くの産業に当てはまっていました。

 過去をよく覚えていることは有利、そういう世の中でした。

 ところが、そういう生き方をしてきた人間にとって、現代はだんだん厳しくなってきています。ちょっと前に最新だった知識はすぐに陳腐化しますし、敵だと思っていた会社がいきなり味方になったり、頼ってきた技術が新しい画期的な発明でたちまち無力になったりなどという変化が周囲で頻繁に起こっています。その変化のスピードは、この数年どんどんと速くなってきていて、私も時々不安になるほどです。

 なにより、コンピューターとインターネットの発達で、情報の価値は劇的に低下してしまいました。知識を今持っているかどうかはあまり大事ではなく、どうやって手に入れるかを知っていれば、それで十分対抗できるわけです。

 連載の11回目でも書きましたが、アップルにジョブズ氏が復帰してしばらくして、慣れ親しんだ6色リンゴのロゴがなくなりました。庭にあったアイコンの看板も撤去されました。食堂にあった初期のアップル製品の展示もなくなりました。

 古くからのアップルの社員やファンにとって心のよりどころになっていた物でもありましたから、反発もありました。「俺たちの努力のシンボルじゃないか」「あの成功がシリコンバレーを作ったのに」などと、過去に貢献した人の気持ちは複雑だったでしょう。

 私も当時、「もったいない」と思いました。しかし、過去の努力や成功を大事にしすぎた結果、上手に軸足を移せなかったとしたら、アップルが今の大成功にたどり着くことはできなかったと思います。

◆過去の成功を思い出さない努力

 時代の、そして会社の転換点にあたって、「昔の小さい成功は忘れろ、視線は将来に移せ」と訴えるジョブズ氏ならではの方法論だったと解釈しています。

 ちょうどアップルが変化を始めたころの11年前、私はシリコンバレーで起業しました。昔は請われてその経験談を講演などで話していましたが、ここ数年めっきり減りました。

 理由は簡単です。私の10年前の経験はそのころはそれなりに貴重でしたが、いま起業する人にはあまり参考にならないことがよく分かっているからです。

 逆に、私自身が最近、努力していることを正直に紹介します。新しい問題に直面した時に、10年前に通用した手段や考え方で押し通そうとする自分の気持ちをぐっと押しとどめて、最近の他の事例を参考にしたり、まったく違う分野の人に相談したりして解決方法を見いだすようにしています。

 一見同じような話に見えても、背景や条件があまりに変わっているので、自分が「過去にできた」という経験や自信が目を曇らせることがままあるのです。

 といっても、成功体験が必ずしも通用しないと認めるのは正直つらい。が、これが目の前に起こっている現実ですし、自分が間違った判断をするのはもっと嫌なのでぐっとこらえています。

 いや、本当はこらえなくてもいいのです。もうすこしリラックスして、いかにもはじめてであった気持ちで、ゼロベースで問題に対峙(たいじ)すればいいのです。が、過去を参照し自分の成功経験から物を言いたがる長年の習慣からなかなか抜けられません。

 シリコンバレーでビジネスをする中で、過去の成功体験に頼るのが正しい判断の邪魔になるケースが年々増えていることを、はっきりと自覚しています。ですので、私はひそかに、10年前の成功をなるべく思い出さない、語らない努力を続けています。

 それに気がつき、それを自分の短所として認められる勇気をもらったことだけでも、シリコンバレーで働いた価値があると思っています。

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