〈仕事のビタミン〉外村仁・エバーノートKK会長7

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外村仁(ほかむら・ひとし)1963年生まれ。東大卒業後、米大手コンサルティング会社に入社。その後、アップルコンピューター・ジャパンに転じ、マーケティングなどを担当。スイス国際経営大学院のMBAを取得し、シリコンバレーで複数の会社を立ち上げる。10年6月から、エバーノート日本法人会長。河合博司撮影

■病院で治療するという、当たり前の幸せ

 私がカリフォルニアに住むようになって、もう11年も経ってしまいました。実を言うと、最初引っ越して来た時はこんなに長く住むことになるとは思っておらず、いま色々なテクノロジーがうまれて盛り上がっている場所に住んでみよう、友人と新しい事業を興してみようという軽い気持ちでした。ですので、数年で日本に戻る、あるいは違うところにまた移ってもおかしくないと思っていました。

 しかしながら結果的に10年も住んでしまい、子供もこちらの学校に通わせていますと、いろんな方から「アメリカと日本とどちらが働きやすいですか。どちらが暮らしやすいですか」という質問を何度となく頂きます。

 この質問は、私にとってもっとも答えにくい質問の一つです。その土地の持つ要素のすべてが好きなら答えは簡単でしょうが、どこの場所にもたくさんのプラスとマイナスがあり、それを総合的に判断した結果、今アメリカに住み続けているということになるでしょうか。

 アメリカに住む前にあこがれのようなものを強くもっているわけではありませんでしたので、あまり期待を裏切られることはありませんでした。逆に、日本では当たり前だと思ってありがたくもなんとも思っていなかったことが、海外に住んでそのありがたみを理解したことが多々あります。

 今日はそのうち、我々の快適で健康的な暮らしに欠かせないものを一つあげてみようと思います。

 私はみかけによらずけっこう神経を使うタイプらしく、加えて食べるのも飲むもの大好きなため、過去に胃を悪くしたことが何度もあります。消化器科のお世話になり、胃カメラ検査を何度もしました。コンサルティング会社にいた時も数回検査をしましたし、スイスで大学院に行っていた時も、スイスの病院で胃カメラ検査をやってもらいました。人間ドックでもやりました。

 しかし、アメリカに住んで10年、つい最近まで一度も胃カメラ検査をしたことがなかったのです。これは、アメリカの生活がストレスフリーなわけでは決してなく(ご推察の通り、こちらで起業するのは極めてハードワークでストレスレベルの高い仕事でした)、その実、胃の調子が悪いからと病院に行って胃カメラ検査をしてくれとお願いしても、いつも「その必要はない」と断られ続けて来たのです。

 それどころか、血液検査もめったにやってくれません。他方日本の病院で「○○の検査をして下さい」とお願いして断られた記憶はほとんどありません。この差はどこからくるのでしょうか?

 実は、ほとんど全ての皆さんが普通にお持ちの健康保険ですが、日本のように国が健康保険を完備しているのは、世界的に見れば当たり前ではありません。先進国としてはアメリカの制度は遅れている方で、そもそも国の制度として「国民皆保険」という考え方がありません。健康保険は一部の特殊なものをのぞいて、基本的に個人や会社が保険会社(私企業です)と契約することになっています。当然、保険代も保険範囲も、どの会社のどの保険を契約するかによってまちまちなわけです。保険によってどこの医者に行けるか行けないかということも変わってきます。

 こういった制度ですので、健康保険料は一概に高く、会社負担でない個人の場合、1カ月の保険の支払いが10万円を越える人も珍しくありません。数年前の統計では、アメリカの65歳未満の人口のうち約30%が健康保険に未加入で、病気になっても病院に行けないという日本人にとっては驚くべき話がありましたが、この保険料の高さではそうなるのも仕方がないのです。

 実際にかかる医療費ですが、日本のように治療や薬品の値段が一律に決められていないので、同じ治療に対しての診療報酬も病院によって値付けが大きく異なる上、そもそもそれぞれの単価が日本に比べて非常に高いのです。

 さらに問題を複雑にするのは、払う側の保険会社や契約している保険のプランによって、また保険会社とその病院や薬局間の契約によって、保険会社が病院にいくら払うかというのが決まるということです。つまり病院はかかった医療費全額ではなく、保険会社が認めた金額しか受け取れないのです。

 先ほど、どんなに頼んでも胃カメラ検査をやってくれなかったといいましたが、これは病院側の財務的な判断とも言えます。検査を行った後に保険会社がこの検査は不要であったと判断した場合、保険会社は医療費を払ってくれず、かかったコストを自分でかぶらなくてはいけないかもしれないわけです。そう考えると、誰が見ても必要だという状況になるまで病状が悪化しない限り、高い費用がかかる検査を避けることになります(かといって、必要な検査や治療をしなかった結果、病状が悪化したり、万が一、死に至ったりすると患者から訴えられるので、そちら側にも一定の歯止めがかかっています)。つまり、アメリカの医療界の基準では、私の症状程度では胃カメラ検査は不必要、過剰であるということになっていたわけです。

 さて、アメリカ生活12年目の快挙(笑)として、今年の4月に初めて胃カメラ検査をしてもらうことができました。私が行った病院はUCSF(カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校付属病院)ですが、なんと、同じ病院から請求書が3通来ました。一つは検査の費用、一つは医者の費用、もう一つは手術/麻酔の費用です。それぞれ紙の色が違い、白、ピンク、茶色と呼ばれています。どういうわけか、請求も会計も、さらには支払先も違うのです。

 今回の胃カメラ検査では、検査費用が446ドル、医者の費用が1463ドル、手術/麻酔が3456ドルでした。超円高の現在でも、合計約42万円です。胃カメラ検査代としてはずいぶん高いと思われませんか?

 しかし、話は高いだけでは終わりません。私の保険会社は比較的大手で、また払っている保険料も割合高く、その対応はアメリカの健康保険全体から見ればましなはずですが、今回の請求のいくつかを「既往症」扱いにして、健康保険から支払わないと言って来ています。つまり自費で払えというわけです。

 実は今年になってから、家族の分も含め色々と理由をつけて保険会社が医療費を払わない分の請求書が私の机の上に4枚あり、時間を作っては保険会社に電話して、今も「戦って」います。行きたい病院に行けない、やってほしい検査をしてもらえない、だけでなく、治療後も支払いに関してここまでエネルギーを使わねばならないというのは、皆さんの想像を絶するのではないかと思います。

 でも皮肉なことに、ここまでバリアーが高いからこそ病院に行きたくないし、病気をしたくないと思い、健康に暮らしたいと思うのです。また国家財政の観点からも、上記の面倒臭さが医療費負担が増えることの歯止めになっているのは間違いありません。

 簡単に病院に行ける日本と、そうでないアメリカ。長い目で見ると、これもどっちがいいとは単純に言えないと思うのです。

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