〈仕事のビタミン〉外村仁・エバーノートKK会長:12

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ジョブズ氏の伝記本

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2010年1月、タブレット端末「iPad」の製品発表会で=ロイター

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クパチーノ上空にかかる虹

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外村仁(ほかむら・ひとし)1963年生まれ。東大卒業後、米大手コンサルティング会社に入社。その後、アップルコンピューター・ジャパンに転じ、マーケティングなどを担当。スイス国際経営大学院のMBAを取得し、シリコンバレーで複数の会社を立ち上げる。10年6月から、エバーノート日本法人会長。河合博司撮影

■未来をどうつくっていくか3 ジョブズ氏の魂を次世代へ

 10月5日にスティーブ・ジョブズ氏が死去してから、はや1カ月ほどがたちました。先週10月24日には、本人公認の伝記が全世界で予定より大幅に前倒しされて発売されましたが、またたく間にベストセラーになっているようです。日本でも、発売から10日間ですでに累計100万部を突破したそうですので、書店で手にとって見られた方も多いと思います。

 私はこの伝記の発売がアメリカで発表された6月6日にすぐ予約をしましたが、英語版の紙の書籍がアマゾンから配送されるより先に、ソニーリーダーという電子ブックを使って、日本のソニーのストアから日本語版をオンライン購入して読み始めることができました(世界同時発売の場合、時差の関係もあって日本の方が先に発売開始されることもあるのです。ボージョレ・ヌーボーもそうですね)。アメリカに居ながらにして、日本の最新刊がいち早く読めるのは本当にありがたいし、第一重さと厚みが全然ちがいます。写真でお分かりのように、アメリカの本は持ち運びには全く向かないのです。

 さてこの本を読んで、徹底した秘密主義者と言われていたジョブズ氏が、私的な部分まで含めてここまで赤裸々に公開することを許した事自体に私は感動を覚えました。世界的に成功した有名人で、一般的に世間ではやっちゃいけないといわれていること、世の常識ではかっこ悪いとされていることを正面から書くことを許した勇気を称賛します。

 私自身についても、常識国家、規則国家の日本で身につけた「仕事はできるけど常識のない人」「才能はありそうだが枠からはみ出る人」に対する冷たさが、心の奥底からはなくなっていないと思います。

 シリコンバレーは「変な人」比率が高いこともあって、ここに引っ越して以来だいぶこの色眼鏡は是正されて来たのですが、やはり変わった人に会うといったん引いてしまう自分が「まだまだ小さいな」と思います。この本のあちこちで出てくる、他人の前で「泣いてしまう」スティーブの姿と、その前後に出てくる氏のとどまるところを知らない情熱とパワー、そして研ぎすまされた本能と徹底主義は、セットにして理解すべきだと再び思いました。

 私はそこそこ年なので自分が今後大きく変わるのは難しいかもしれません。その分次の世代が活躍するのを手助けする義務があると思い、できる範囲でそうしてきたつもりです。でも、今後はますます、日本でいうちょっと変わった人、普通じゃない人を、もっと意識してひいきしていかねばなりません。

 残念ながら、日本の大会社のシステムも、教育システムもそれの正反対にできています。今後の日本を活力ある国にしていきたいと思われる方は、ぜひ私のように考えてともに始めて頂ければと思います、今日から少しずつでも。

 さて、この連載の第10回で、スティーブが亡くなったその日、偶然にも彼がひいきにしていた和食の店で食事の予定だったと書きました。その店はメンロパークにあった「桂月」(けいげつ)で、シリコンバレーでトップの懐石料理店でした。そのお店のオーナーだった佐久間俊雄さんことトシさんが、11月3日付の日経新聞で、ジョブズ氏との思い出をつづっておられます(このお店は私が行った2日後に惜しくも閉店してしまいましたが、トシさんはジョブズ氏に誘われ、今後はApple本社で腕を振るわれることになりました)。

 そして、その日その店で一緒に食事をする約束をしていたのは楽天の三木谷浩史さんだったのです。私も三木谷さんも、最後の週に「桂月」で食事ができることを大変楽しみにしていたのですが、ディナーの直前に訃報(ふほう)を聞き、会食はお通夜のような雰囲気で始まってしまいました(しかしトシさんと京都吉兆出身の板さんのつくられるお料理はいつも以上に大変すばらしく、だんだん元気がでてきたのはとてもありがたかったです)。

 翌日、三木谷さんから一通のメールが届きました。社内公用語が英語の楽天ですから、もちろん三木谷さんとのやり取りは英語がベースです。社用や公用で極めてお忙しい三木谷さんのメールはいつも簡潔なのですが、今回のメールはこんな一行でした。

 I really think we need to make sure we inherit the challenging spirit of Steve.

 直訳すると「スティーブのチャレンジ精神を、我々はぜひ受け継いでいけねばならないと、心底思います」という短いメールでした。

 IT産業で日本を代表する起業家の一人である三木谷さんが、スティーブの最期の週にたまたまシリコンバレーに滞在されていた偶然。そして死去のその日に、スティーブお気に入りのレストランで食事をしていた偶然(内情を話すと、元々はその2日前の予定だったのですが、前の週に三木谷さんの予定が変わり急きょこの日になったのです)。私は、この偶然になにか運命的なものすら感じました。

 そして、翌日届いた三木谷さんのメッセージは本当にうれしかった。この瞬間を幸いにして共有した我々は、この10年間の偉大なビジョナリーであり、業界のリーダーであったスティーブ・ジョブズの見せてくれた未来の方向性や、変革力、「夢はかならず実現できる」という強い意志を、自ら実践していかねばならない。さらに次の世代にしっかり伝えていかねばならない。そういう決意がこのメッセージから伝わってきたのです。告白するのはすこし恥ずかしいけど、いまこれを書いていても、その時の感激を思い出すと涙腺が緩んできます。

 And one more thing.

 この日はもう一つの偶然がありました。スティーブ・ジョブズ死去の第一報を知ったのはアップル本社のあるクパチーノ方面に向かう車の中だった、と前々回書きましたが、そのとき不思議な光景を目撃したのです。高速道路を走りながら死去のニュースを知って衝撃をうけていたその時、目の前に大きな虹がするすると伸びていったのです。

 シリコンバレーは雨が少ないので、虹を見る機会はあまりありません。私は無宗教で、普段は神が仏がとは全く言わない人間なのですが、クパチーノ上空に大きく弧をのばす美しい虹を見た瞬間、この時だけは、「ああ、あの虹にのって天国に召されているのだな」と、真顔で思ってしまいました。

 しかしその夜、三木谷さんと話し、そして翌日メッセージをもらって、今は虹の解釈が少し変わりました。あの虹は天に向かったものではなく、スティーブ・ジョブズのスピリットを、世界中のイノベーターに届けるための架け橋だったに違いない、といま思います。

 スティーブ・ジョブズに薫陶を受けた人、彼の精神を受け継いだ人を、私はジョブズチルドレンと呼んでいますが、アップルの近いところ、IT産業の近くにいた人だけでなく、世界中のあらゆる国、様々な産業にいるイノベーターたち、ジョブズチルドレンの予備軍達に対して、しっかりと氏の思いが虹にのって届いたのではないでしょうか。

 世の中の決まりや常識にとらわれすぎることなく、時には出るくぎになり、時には人に嫌われることも恐れず、自分の直感を信じ、勇気を持って挑み続けることは普通の人にとっては簡単ではなく思えるかもしれません。

 しかし、世界を良くしていくためにはこれが必要、そしてその人の周りもこれを認めサポートすることが必要ということを強烈に教えてくれたスティーブ・ジョブズ。やはり私の座右の銘はしばらくこれになりそうです。

 Stay hungry, stay foolish.

(追悼連載、完)

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