〈仕事のビタミン〉外村仁・エバーノートKK会長10

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ジョブズ氏の死を悼む献花=外村仁撮影

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外村仁(ほかむら・ひとし)1963年生まれ。東大卒業後、米大手コンサルティング会社に入社。その後、アップルコンピューター・ジャパンに転じ、マーケティングなどを担当。スイス国際経営大学院のMBAを取得し、シリコンバレーで複数の会社を立ち上げる。10年6月から、エバーノート日本法人会長。河合博司撮影

■未来をどうつくっていくか1 Stay Hungry,Stay Foolish

 10月5日木曜日の夕方、私はシリコンバレーに向かって高速道路I−280をひた走っていました。あと5分ほどでAppleの本社があるクパチーノ市に入るあたりで、突然私のiPhoneがけたたましく音を立て始めました。電話の呼び出し音、テキストメッセージやメールの着信音……。何事かと思ってラジオをつけると、アナウンサーの緊迫した声が流れて来たのです。

 この日は朝から奇妙な日でした。クパチーノ市内にアップルが現在建設中の第2本社、その建物の形があまりにも未来的でまるで宇宙船が舞い降りたようなデザインで話題を呼んだのですが、そのすぐ脇の工場で機関銃の乱射事件が起き多くの人が犠牲になった上、犯人が住宅地に逃げ込んで見つからないというので、近所の学校は朝から臨時休校で生徒は自宅待機、その一帯には非常線が張られ警察のSWAT部隊が犯人探査を続けていました。普段平和で犯罪も多くないこのエリアにしてはめずらしく凶悪な事件で、私の友達も今日は家で働こうかな(子供が急に病気になったときなどに、家で働くというのはこのあたりではよくある話です)と言っている人が多い日でした。

 そんな事件があった日、私もそちら方面に行くのは気乗りがしなかったのですが、夜にビジネスディナーのためにレストランを予約していましたので、夕方になって車に乗って南に出かけました。セコイアキャピタルなどの著名ベンチャーキャピタルが立ち並ぶことで有名なサンドヒルという通りがメンロパーク市にあるのですが、そこにある和食レストランが今週で営業を終わるというので、そこで最後の晩餐(ばんさん)を予約していたのです。そして、そのレストランは、アップルの創業者かつ最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズ氏が常連となっているお店としても知られていて、先日ジョブズ氏がCEO引退宣言をした直後に、こちらのお店も閉店するとの案内を頂いたのでぜひ最後にもう一度と、日本からのお客様と一緒に食事に行くことにしていました。どうにか予約がとれて、参加者全員とても楽しみにしていたのです。

 雨上がりの高速道路を時速70マイルで走りながらですが、ラジオから流れてくる早口の英語のニュースはこう聞こえました。「Appleの共同創業者およびCEOであるスティーブ・ジョブズ氏が先ほど亡くなりました。56歳でした」。どの局に変えてもこのニュースを繰り返し、繰り返し流していました。にわかには信じられず、本当だろうかと友達に電話をしました。そして、アップルのホームページにもアクセスしてみたら、いつもとは全く見かけが違い、トップページに大きな氏の写真が掲げられていて、これは単なるうわさでなく、本当に起きたことであることがわかりました。氏の体調が良くないこと、そして最近CEOから降りたことなどから、この日がいつか来るだろうとはわかっていました。でも、現実として起きて欲しくなかったことがとうとう現実になった瞬間でした。

 シリコンバレーという土地柄もあるとは思いますが、その日会う人、会う人この話になりました。といっても、皆なにか不機嫌か、いらだった風で、言葉は少ないのです。また、この日アップルの本社には夕方から献花をする人が次々に訪れ、夜通し続いたそうです。私が行ったのは夜も更けた11時ごろでしたが、100人ほどの人が思い思いのメッセージやお花を次々に添えていて、人の流れが途絶えませんでした。全米にある小売店にも、パロアルト市にある氏の自宅の前にも、お花やろうそく、かじったりんごのお供えが絶えないそうです。恐らくこういう風景は日本でも一部報道されたと思いますが、これは熱狂的なマニアたちがやっているのではなく、近所の住人が、またいたって普通の人が、何かを感じ、何かを伝えに自発的に出かけて行っているのです。

 考えてみるとこれは不思議な風景です。その国に古くから続く王族でもなければ、宗教団体の指導者でもない。一つの私企業の社長です。献花に来ていた人と少し話をしたのですが、私の友人の中で普段比較的冷静な人たちと話しても、今回の自分たちの行動を不思議がってこういう事を言っていました。

 「どうして、直接会ったこともない他人なのに、こんなに自分が感情的になるのだろうか」「どうして、話したこともないのに、メッセージを伝えに行こうと思うのだろうか」

 私自身の場合でも、多少他の人よりつながりはあるかもしれませんが、それでもここまで感情が揺さぶられるのは一体どうしてなのでしょうか?

 紙面に限りがありますので、今回は有名なスタンフォード大学の2005年の卒業式のスピーチから一つヒントをもらって考えてみたいと思います。もう半ば伝説化しているそのスピーチの最後に有名な言葉がありまして「Stay Hungry, Stay Foolish」という言葉で、3章立てのスピーチが締めくくられます。日本でも繰り返し報道された上、今は日本の高校の英語の教科書にも掲載されているというので。このフレーズをお聞きになったことがある方も多いと思います(もしまだご覧になってない方は、字幕付きでネットに上がっていますのでぜひ検索してご覧になって下さい)。さて、このキメの言葉、日本語では「ハングリーであれ、バカであれ」と訳される例もあるようですが、後者の日本語訳には工夫が必要です。ここでいうFoolishは愚か者とか、頭が悪いなどという意味ではありません。

 我々の日々の仕事や生活の中での発想を振り返ってみましょう。私たちは報道での評価やランキングなどにあまりにも影響されすぎていないでしょうか。失敗したらどうしようか、損するのではないかと先回りして心配しすぎてないでしょうか。自分だけ出すぎて浮かないだろうか、笑われないだろうかと、人目を気にしすぎてないでしょうか?

 日本の会社の人と話していると皆さん個々人ではとても優秀なのですが、圧倒的にアクションが遅い。そして意見調整に時間を使いすぎて、なかなか意思決定ができない。過去の価値観で育てられ、その上で経験値をためて来た我々は、閉塞(へいそく)感あふれる今こそ、上のような自問自答をする必要があると思うのです。

 「スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼンテーション/イノベーション」の2冊の翻訳者である井口さんは、この「Stay Foolish」を「分別臭くなるな」と表現されました。

 分別がありすぎて、あれこれ考えすぎて、常識にがんじがらめでなかなか行動に移せなくなっている現代の我々。それに向かって「考えてばかりいないで、ちょっとはバカになって、時にはむちゃしてみたら?」と投げかけてくれるスティーブ・ジョブズ。こんなことを堂々と言ってくれるいい大人が、最近身の回りにいたでしょうか?

 次回に続きます。

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