闘う町長、記者に遺言 原発事故「死者いない」は間違い

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三浦英之
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 津波避難の心構えとして提唱された「津波てんでんこ」。おのおの、めいめいという意味があります。東日本大震災福島第一原発事故と向き合う被災地の動きを追い続ける朝日新聞の連載「てんでんこ」から、ある町長の「遺言」になった話をまとめてお伝えします。

遺言

 真夏日だった。気温31度。

 強烈な太陽光に照らされて白く見える街の中へ、黒塗りの霊柩(れいきゅう)車が駆け抜けていった。

 「町長、ありがとう」。静寂の中で響くクラクションの音を追うように、斎場に詰めかけた約1千人の町民らから声があがった。

 福島県浪江町の前町長、馬場有(ばば・たもつ)の葬儀は2018年7月3日、浪江町の北隣の南相馬市で営まれた。享年69歳。

 東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示が解除されてから約1年3カ月、町内にはまだ営業を再開した斎場がなかった。

 苦悩に満ちた晩年だった。

 浪江町は第一原発の北8キロに町役場を置く。馬場はその原発近隣町で07年、「国道拡幅」を掲げて町長選に初当選した。

 1期目も残りわずかだった11年3月。東日本大震災が起き、誰も経験したことのない原発事故に襲われた。

 以来約7年間、全町民約2万1千人を町外へと脱出させる「全町避難」や、県内外で避難生活を送る町民への対応など、前例も正解もない難題に身を削って取り組み続けた。

 故郷を追われた町民の先頭に立ち、声を荒らげて国や東電の責任を追及する姿に、「闘う町長」と慕われた。一方、2017年春に国の避難指示解除を受け入れることを決断すると、放射線への不安を抱く町民からは「俺たちをモルモットにする気か」と批判された。

 心労が重なり、17年末から入退院を繰り返していた。悩み抜いた末、6月13日に町議会に月末付での辞表を提出した。直後の27日、現職のまま、胃がんで逝った。

 亡くなる約2カ月半前のことだ。馬場は「後世に書き残してほしい」と私をひそかに自宅へ招き、長時間の取材に応じていた。

 聞き取りは計3日間、携帯電話での取材も合わせると計約6時間になる。馬場は震災時の状況や自らの心境、町政の課題や東電とのやりとりなどを詳細に語った。

 「何でも話す」。代わりに、掲載は「私が許可するか、万一のことがあった後に」という条件をつけた。

■告白…

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この記事を書いた人
三浦英之
盛岡総局
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