満州に侵攻したソ連軍の集結地 落ちていた戦利品とウクライナの痕跡
78年前の8月8日、日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州国(現・中国東北部)への侵攻を翌日に控えた極東旧ソ連軍が、モンゴル南東部に集結していた。調査団に同行して記者が現地を訪ねると、現在のウクライナと関わりの深い部隊の痕跡があった。
満州国 1931年の満州事変の翌年、関東軍(満州に駐留していた日本軍)が中国東北部につくった「国家」。政権の正統性を確保するため、清朝最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)を帝位に就かせた。「王道楽土」の建設や「五族(日・満・漢・モンゴル・朝鮮)協和」などの標語を掲げたが、45年の崩壊まで実権は日本人が握った。ソ連が満州に侵攻すると、関東軍は朝鮮国境付近に撤退し、女性や子ども、高齢者が取り残された。ソ連軍の虐殺や略奪、絶望した避難民の集団自決が相次ぎ、軍民合わせて約25万人が死亡した。
360度地平線に囲まれた草原に、ナチスドイツのかぎ十字入りのカップやスープ皿の破片が転がっていた。
「1942」「1940」と製造年の表記がある。近くに、ドイツの高級磁器マイセンの紋章が入った皿の破片、ドイツ製トラック用タイヤの切れ端や、米国製のスパムなどの空き缶もあった。ソ連製の車両部品や、対戦車ライフルの銃弾も見つかった。
朝日新聞と朝日放送は5月末…