つながれる問いさがそう 哲学者・永井玲衣さん「ここからはじめる」
Re:Ron連載「問いでつながる」第1回
「もう分断という言葉を見飽きてしまいました」
誰もいなくなった部屋のホワイトボードに、それは書き残されていた。わたしはしばらく、かすれた黒いインクの連なりの前に立っていた。大学生が書いたというのはわかるが、誰の字なのかはわからない。何を思ってそれを書いたのかも、わからない。ただ、ひどく疲弊しているように思われた。ここにあるのは、怒りだろうか、諦念(ていねん)だろうか、淋(さび)しさだろうか?
この小さな叫びを、わたしたちはどう受け止めたらいいのだろうか?
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Re:Ron連載書籍化『コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート』(柏書房)刊行記念 信じられる言葉はありますか?人類学者×哲学者の対話
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対話が必要だ。だがわたしたちは対話に絶望している。
社会の問題が語られるとき「もっと対話がされるべきだ」と求める声は多い。気がつけばいろいろなことがぬるりと決まっていた、というのが自分と社会の基本的なコミュニケーションだと捉えているひとは多いだろう。もっと説明があるべきで、もっと対話がされるべきなのに、誰かによって急いで決断されてしまう。もしくは、まだ十分に耕されていないテーマなので、これからより対話が必要だと抽象的に結論づけられてしまう。
だが、わたしは問うてみたい。わたしたちは本当に「対話をしたい」と思っているのだろうか?
「べき」と「したい」は異なる。この微妙だが決定的な違いに、わたしたちは甘えている。必要ではある。だが、やりたくない。やりたくないが、必要である。論じることはできても、自分はしない。したくない。
しかしそれはそうだ。わたしも基本的にやりたくない。まず怖い。対話が怖いというより、他者が怖いのだ。とりわけ政治的なテーマだと、恐怖は増大する。そもそも、政治的なことについて、誰かと誰かがやりとりをしている姿を見ることさえ、嫌と感じているひともいる。
ある場で、高校生と話していて、気がついた。言論空間の重要性、対話の必要性を論じようとしても、何だかかみ合わない。どこかすれ違っている。かれらにとっての「言論」を掘り下げてみると、SNSでの攻撃的なやりとりがイメージされていた。「論じる」ことは、過激な意見を押し付けることであり、「批判」は炎上であり、「対話」は論破であった。
分断を埋めようと努力するはずの行為が、分断を生む手立てとして現れていた。
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子どものころから、わたしはとにかく「話し合い」が嫌いだった。文化祭で何をするのか。制服を変えるのか。誰もやりたくないリレーの選手を、誰がやるのか。教室での話し合いは、誰が決めてくれるかを決めるという作業がほとんどだったと記憶している。多くの場合「やりたい」と言ってくれるひとがいて、そのひとたちが何でも決めてくれた。わたしにとっては、何もかもがどうでもよかった。
数少なかった授業での話し合いは「賛成ですか、反対ですか」という二択を迫られた。ある授業のテーマは死刑制度だったが、賛成派が何となく発言をし、反対派も今思いついたようなことを発言した。両者は最初から交わりそうになかった。それは対立すらしていなかった。大きさも種も異なる動物が、互いに関心をもたずに、草原をただうろうろしているように見えた。
そう、わたしたちは対話のテーブルにつきたいか、つきたくないか以前に、「自分の考え」なるものが、あらかじめあるわけではない。自分の考えというものは、他者と共に練り上げるからこそ、ようやく形作るものだ。よく目にする「改憲に賛成ですか、反対ですか」というアンケートの回答結果を見るたびに、わたしはあの何とも言えない時間を思い出す。
激しく分断するか、互いに無…
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