被爆後の長崎、「イズヲクダサイ」の声 美輪明宏さんの消えない記憶
いま世界には約1万3千発の核弾頭が存在します。ロシアのウクライナ侵攻によって、実戦で使われる恐れまで浮上しました。そんな中、今月に被爆地・広島で開かれる主要7カ国首脳会議(G7サミット)では、「核兵器のない世界」が主要なテーマの一つになります。その道筋をどう切り開くのか。G7首脳らへの注文を、さまざまな方々に語っていただきます。
原爆が落とされた時は10歳でした。長崎市の繁華街に住んでおりましてね。私(わたくし)の生家は、日本の3大遊郭とも言われた丸山遊郭のすぐそばにありました。カフェーを営んでいたんです。今のキャバレーのちょっと規模を小さくしたような、水商売なんです。
家の隣が、映画劇場でもあり、お芝居小屋でもあるという場所でした。隣だったので、舞台裏の大道具や小道具の皆さんに遊んでもらったり、よくメーキャップしてもらったりしたのを覚えています。私がプロになってから、自分で大道具や小道具までデザインするようになったのはそこで下地ができたんです。
ちょうど生家の向かい側には、レコード屋さんがあったんですよ。クラシックから、ジャズ、シャンソン、タンゴ、浪花節――。私がクラシックからタンゴまで歌うようになったのは、その影響も大きいんですね。
ところが戦争が始まりますと、水商売は廃業に追い込まれて、かわいがってくれたカフェーのボーイさんたちもみんなクビになりました。レコード屋さんで、年中かかってたレコードも退廃的であるというので、軍歌以外は駄目になりましてね。夕方になるとしょっちゅうかかっていたロマンチックな流行歌なんかも禁じられて、なくなりました。
美輪さんは、2013年のNHK紅白歌合戦で、ある歌を選びました。記事後半で、歌に込めた思いを語っています。
原爆が落とされた日は、ちょ…
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