なぜ愛する家族に手をかけたのか 「集団自決」が映す沖縄戦の不条理

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棚橋咲月
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 米軍が沖縄県慶良間(けらま)諸島に上陸し、太平洋戦争での日米最後の地上戦である沖縄戦が始まってから26日で80年。約3カ月にわたる戦闘で、追い詰められた住民の「集団自決」が多発したのも大きな特徴だ。この日、最初の上陸地の一つ・座間味(ざまみ)島(同県座間味村)で慰霊祭が行われ、遺族らが犠牲者を悼んだ。

 村の追悼碑「平和之塔」で開かれた慰霊祭では、遺族代表の高江洲(たかえす)敏子さん(93)が「私が経験した怖さ、つらさを、孫、ひ孫に体験してほしくない。この平和がいつまでも続くよう祈っている」とあいさつ。玉城デニー知事も参列し、「戦争の不条理さ、残酷さ、平和の尊さを次の世代に正しく伝えることは私たちの責務」と述べた。

 沖縄戦は太平洋戦争最大の地上戦で、犠牲者は日米の軍民合わせて20万人。県民の4人に1人が亡くなったといわれる。

 慶良間諸島には1945年3月26日から米軍が上陸。投降を禁じられた住民たちは山中やガマ(自然洞窟)に逃げ、日本軍から渡された手投げ弾などで命を絶つ人が相次いだ。県史によると、慶良間住民の「集団自決」による犠牲者は座間味島177人、慶留間(げるま)島53人、渡嘉敷島330人とされ、他の島でも証言などが残る。4月1日には沖縄本島に米軍が上陸した。

島にやってきた日本軍 暮らし一変

 80年前、米軍が上陸した沖縄の小さな島で、家族や島民が殺し合う「集団自決」が起きた。なぜなのか、考え続ける人がいる。

 座間味(ざまみ)島出身の女性史研究者、宮城晴美さん(75)が、母から直接「集団自決」の話を聞いたのは1977年のこと。犠牲者の「三十三回忌」にあたる年だ。

 44年半ば、当時2千人ほどが暮らしていた座間味村に、日本軍の海上特攻隊が配備された。島の家々に兵士が同居することになり、暮らしは一変。村職員だった宮城さんの母は、自宅に兵士15人を受け入れて寝食の世話をしたうえに、女子青年団長として軍の炊事なども担った。

 「捕虜になるな。戦って死ぬか自決せよ」。軍人たちは住民をそう指導した。陣地の配置といった情報が住民から米軍に漏れることを防ぐ目的もあったとみられる。

弱い者に向かった暴力

 米軍の上陸前日の45年3月…

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この記事を書いた人
棚橋咲月
那覇総局
専門・関心分野
沖縄、平和
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    阿部藹
    (琉球大学客員研究員・IAm共同代表)
    2025年3月28日20時28分 投稿
    【視点】

    記事では、「集団自決」(強制集団死)という極限状態の中で暴力が一番弱い者に向けられた、という宮城晴美さんの指摘が紹介されている。座間味島での性別や年齢が判明した犠牲者135人のうち、8割以上の112人が女性や12歳以下の子どもだったという。

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