戦後も福岡の地に人的な影響力 玄洋社という存在
アナザーノート 大鹿靖明編集委員
ひさしぶりに福岡市の崇福寺を訪ねて、「玄洋社墓地」がずいぶん立派になったことに驚いた。
玄洋社は、不平士族の反乱から自由民権運動が広がった1880年、旧福岡藩士が中心になって作った政治結社である。戦後まもなく連合国軍総司令部(GHQ)に解散させられ、右翼の超国家主義団体と認識されてきた。
崇福寺は福岡藩主の黒田家の菩提(ぼだい)寺だ。福岡城の門を移築した立派な山門をくぐって墓所に入ると、「玄洋社墓地」と書かれた大きな碑があり、頭山満、来島恒喜、高場乱(おさむ)の墓がある。
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かつては雑草が生えて荒れていたが、砂利を敷いて整備し、3月には、牛に乗った高場の大きな像が設けられた。高場は福岡以外ではあまり語られないが、男装した女性で、頭山ら草創期の玄洋社の人たちを育てた塾の主宰者だった。つまり玄洋社のルーツにあたる人だ。
墓地を整備したのは、高場の姉の子孫にあたる水産仲卸、アキラホールディングスの安部泰宏CEO(84)。私財を投じるとともに寄付を募った。「自分が元気なうちに、福岡の先人の遺業をきちんと伝えるものを作りたかった」
154基ある玄洋社員の墓は、亡くなった人の名前を隠すよう墓石を向かい合わせにした状態になっていたのを、墓の表側が見えるよう配置し直した。名前のところに墨を入れ、誰の墓かわかるようにもした。ずらりと並ぶ社員の墓はなかなか圧巻だ。
玄洋社は、頭山が高場の塾で学んだ仲間とともに設立した。外相大隈重信の不平等条約改正交渉に憤慨した玄洋社員、来島が大隈に爆弾を投げつけたテロで知られる。大隈は右足を失い、来島はその場で自決した。そんなテロリスト来島の墓が立派なのに驚く。
広田弘毅や中野正剛の銅像、街のあちこちにしのぶもの
福岡の街を歩いて気づくのは、そこかしこに玄洋社をしのぶものがあることである。
福岡城そばの大濠公園には…
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- 【視点】
現在進行系の事件を追った記事のほうがPVは集まりやすいのかもしれませんが、私はこれぐらいの距離感で歴史を振り返るものが好みです。いま右翼というと、ネット右翼のイメージが強すぎますが、かつてはアジア主義者のことを言いました。そんな歴史を思い出
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