親子5代、鉄道一家の1世紀 「私の後…」息子にかけた父と同じ言葉

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藤野隆晃
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 金沢市からほど近いJR松任(まっとう)駅(石川県白山市)。駅長の喜多慎二さん(58)は毎日、2本あるホームを端まで歩く。

 表示板が落ちそうになっていないか、乗客がつまずくような段差がないか……。駅のちょっとした異変を探すのが日課だ。

 「危険の芽は早いうちにつぶすことが大事。お客さんを目的地へと安全にお届けすることの大切さを日々感じています」

 喜多さんが鉄道の仕事に就いたきっかけは、父の利勝さんだった。

 戦争が終わり、日本が復興に向けて歩み始めたころ、利勝さんは日本国有鉄道(国鉄)で働き始めた。

 力強く駆け抜けていく蒸気機関車(SL)に憧れた。SLで石炭を投げ入れる機関助士として、福井県の敦賀を拠点に働いたという。

 だが、仕事は過酷だった。黒煙にまみれ、肺の機能が落ちた。身体的な限界を迎え、3年ほどでSLから降りた。

 その後は内勤を中心に働いた。

 経済が急速に成長した時代。列車のスピードを上げ、より多くの人を運ぶため、鉄道網の電化が進められた。

 北陸も例外ではなかった。工事の担当として周辺住民に理解を求めたり、進展を管理したり。SLが消えていく寂しさよりも、電化で便利になることを喜んでいた。

喜多慎二さんの父も、祖父も、そして曽祖父も「鉄道マン」でした。その歴史を振り返るとともに、次世代に思いを託します。ただ、かつては苦難も多かったようです。

半世紀前に起きた大惨事、苦難の日々も

 ただし、ちょうど50年前の秋、利勝さんが仕事に出たまま、1カ月ほど帰ってこないことがあった。

 1972年11月6日、北陸…

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