核戦争の瀬戸際、83年にもあった 米ソ首脳を近づけた危機への実感

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編集委員・副島英樹
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100年をたどる旅~核の呪縛~③核危機、薄氷の人類生存

 米国から5発の核ミサイルが発射された――。1983年9月26日。ソ連の早期警戒衛星は驚愕(きょうがく)のシグナルを発した。その約3週間前の9月1日、ソ連機による大韓航空機撃墜事件が発生し、米ソ間に緊張が走っていた。

 ミサイル監視の任務についていたソ連の中佐スタニスラフ・ペトロフは、数分以内に対応を決めなくてはならなかった。「たった5発で戦争を始めるはずがない」。ペトロフはとっさに誤警報と判断した。

 ペトロフの読み通り、実際にはミサイル発射などなかった。雲の先端で反射した日光に、衛星が幻惑されたのだ。ペトロフは後に「世界を救った男」と呼ばれるようになった。

 人類が核戦争の直前まで迫った局面としては62年のキューバ危機がよく知られる。だが、この83年も核戦争の瀬戸際だったといえる。

 その要因のひとつが、83年11月、核戦争が始まることを想定して北大西洋条約機構(NATO)軍が実施した軍事演習「エイブル・アーチャー83」だ。米国は後に、実はこの演習が世界を核戦争の一歩手前の状態にまで至らせていたことを知る。ソ連の情報機関は、米国が演習と称して核の先制攻撃をしてくるのではないかと疑心暗鬼になり、核ミサイルの発射準備を進めていたのだ。

 核兵器は、誤情報や誤った判断への懸念に加えて、システム上のエラーによる発射の恐れもある。元米国防長官ウィリアム・ペリーは著書「核のボタン」の中で、冷戦期に米国で少なくとも3回、ソ連で2回、そうした誤警報があったと指摘する。その場合、10分以内に大陸間弾道ミサイル(ICBM)を発射するかどうか決めなくてはならない。

 「冷戦」は薄氷の上で成り立っていた。=敬称略

 「すべての核爆発装置をなくすということか?」。冷戦下の1986年、ソ連指導者のゴルバチョフ氏は、当時のレーガン米大統領から問われました。核戦争の危機が現実感を増す中で、ゴルバチョフ氏が返した答えは……。記事後半で紹介します。

米ジョンソン政権が打ち出した「MAD」な構想

 米国による広島・長崎への原…

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この記事を書いた人
副島英樹
編集委員|広島総局駐在
専門・関心分野
平和、核問題、国際政治、地方ニュース