2年後に開業100周年を迎えたい 米坂線の復旧願うイベント開催へ
JR米坂線は、新潟県村上市の坂町駅と山形県米沢市の米沢駅の約90キロを結ぶ。豪雨災害で全区間の7割超が運休となって2年。8月31日には復旧を願うイベントも開かれる。2年後には米沢―今泉間の開業100周年を控えるが、その歴史は自然災害との闘いの繰り返しともいえる。熱意がかなって誕生した鉄路を守ろうと、幾度も復活を遂げてきた。
1892(明治25)年、国が計画的に鉄道建設を進めていくため、旧鉄道敷設法が公布された。整備の予定線には「新潟県下新発田ヨリ山形県下米沢ニ至ル鉄道」と米坂線に当たる鉄路も盛り込まれた。ただ、着工は大正時代に決まりながらも、完成を見たのは昭和10年代。予定線の中で完成が一番遅れた。
「山形県史」によると、県議会は1893年以降、再三にわたって政府に建議書を出した。敷設の効果としてまず訴えたのは、国民経済への貢献だ。生糸やコメ、木材、鉱物などを鉄路経由で関西に輸送すれば「国家ノ富殖ヲ助クルニ至ル」と主張した。もう一つが、当時重要視された軍事的な利点。仙台師団と新発田の分営さらに山形歩兵第32連隊を結ぶ重要な国防機関と強調した。大正時代に入ってからも陳情を重ねた。
なぜ完成が遅れたのか。同じ羽越横断鉄道の磐越線の開通や、米坂線の路線をめぐる対立によって着工が遅れたとの指摘がある。
米沢―今泉間は1920年代前半に起工し、26年に開通した。一方、今泉―坂町間は今坂線として別に取り扱われた。小国を境に今坂西線・同東線に分け、今泉と坂町双方から起工。1936(昭和11)年、最後の工事区間が完成し、ついに全線が開通した。県史は「かつては十三峠街道(越後街道)として内陸と越後とを結ぶ峠街道も、いまや『文明の利器』鉄路へと一大変化を遂げた」と表現している。
「飯豊町史」によると、敷設工事の間は韓国人を含む多くの工事関係者が住み、小学校の児童数が転入生らで膨れあがった。開通式当日は、駅近くで花火が上がった。当時は蒸気機関車だったため、真夏などはトンネルを走る車内に黒煙やすすが入り込み、乗客の白いシャツが汚れたり、顔がうっすらと黒ずんで見えたりしたという。
1960(昭和35)年には、仙台―新潟を結ぶ準急「あさひ」(後に「べにばな」に改称)が運行を始めた。一時は急行に格上げされ、太平洋側と日本海側を結ぶ大事な役割を担った。
米坂線とわたし
山形県米沢市と新潟県坂町を結ぶJR米坂線は、2022年の豪雨で被災し、運休が続いています。沿線に住む人たちが米坂線に寄せる思いを紹介します。
米沢ー今泉間、1926年に開通
■雪崩や河川の氾濫で不通に…
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