西本願寺の門前町、三つの寺が堂内初披露 幕末の大火後に再建・移転
浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺(京都市下京区)の東側に、いくつもの寺や仏具店が軒を連ねる門前町がある。開祖・親鸞(しんらん、1173~1262)の生誕850年を記念し、門前の三つの寺が、秋の「京都非公開文化財特別公開」(京都古文化保存協会主催、朝日新聞社特別協力)で堂内を初披露する。
門前町は、時が穏やかに流れる。
西本願寺との間を幹線道路の堀川通が貫くが、その騒々しさがここにはない。東西300メートル、南北700メートル。碁盤目状の町割りに、約20の寺が点在する。
起源は、豊臣秀吉による京都改造で、西本願寺がこの地に移ってきたことにさかのぼる。江戸時代になると、広大な境内に80を超す寺院が並び、幕府の力も及ばない独自の自治を行う寺内町をつくった。しかし、幕末に起きた蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)による大火で焼け野原に。現在の町並みは、その後再建された。
明覚寺 豪華絢爛、典型的な本堂
公開される3寺院のうち、明覚寺(めいかくじ)は典型的な浄土真宗の本堂を構える。
堂内は現実世界である外陣(げじん)と、極楽浄土を表現する内陣に分かれる。本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)を安置する内陣は、黄金に飾られて豪華絢爛(けんらん)そのもの。明治時代の建立で、国の登録有形文化財になっている。
創建は室町時代(1490年)。楠木正成(まさしげ)の末裔(まつえい)という武士が仏門に入り、当初は舟運(しゅううん)の盛んだった淀川沿いに建立したという。江戸初期に西本願寺の近くに、明治時代(1898年)に現在地に移った。
本堂の奥には茶室がある。元は本願寺派門主の旧別荘の茶室で、この別荘は秀吉が建てた伏見城の月見台と伝わる場所にあった。昭和初期に移築された。
柱本惇住職(35)は「仏教の教えがあるからこそ守られてきたということを感じてほしい」と話す。
法輪寺 茶室のわびさびと調和
西本願寺から徒歩5分。法輪寺の本堂は「座敷御堂(みどう)」と呼ばれる珍しい建物だ。たたずまいは古民家のよう。外陣に広い座敷と茶室があり、茶室のわびさびとの調和を図るため、内陣は極彩色にせず、質素な美の空間となっている。大火後の慶応年間に再建された。
創建は江戸初期(1624年)。初代住職の戒雲は、龍谷大学の源流となる西本願寺の学問所「学林(学寮)」で能化(のうけ、現在の学長職)の代役という要職を務めた。大火では、本尊の阿弥陀如来像は井戸に入れて救われたという。
「仏教は平和を実現する教え。心安らかに拝観して下さい」と川村覚昭(かくしょう)住職(75)。寺宝の聖徳太子絵像なども展示される。
一念寺 「新選組」に対した重鎮ゆかり
同じ通りの一念寺は、明治維新の頃に門前町の別の場所から移ってきた。幕末期には西本願寺の重鎮・富島頼母(たのも)の屋敷があった。富島は、西本願寺に屯所(とんしょ)を構えた新選組の退去に努めたことで知られる。
本堂は、法輪寺と同じ座敷御堂。縁側のような入り口から内陣が見える。文化人との交流が深く、収集品も多い。特別公開では芥川龍之介や高村光太郎、泉鏡花らの書画を展示する。
「文学や芸術への寺の功績を知ってもらえたら」。町歩きの案内もする谷治暁雲(ぎょううん)住職(50)は話す。
公開は、明覚寺(下京区平野町783)が11月13~26日(19日は休止)。法輪寺(柳町317)と一念寺(柳町324)は12~20日。西本願寺も飛雲閣と書院を12~21日に公開する。拝観料はそれぞれ大人1千円、中学・高校生500円。電話075・451・3313(京都古文化保存協会)
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