日中国交正常化から50年 風化進む中国人慰霊塔
足尾銅山跡(栃木県日光市足尾町)の北の外れ。高さ13メートル、6メートル四方の鉄筋コンクリート製の巨塔が、深い山々に抱かれた斜面の空き地に立つ。
「中国人殉難烈士慰霊塔」と前面の御影石に彫られている。アジア太平洋戦争末期、257人の中国人が家族から引き離され、異境の鉱山(ヤマ)で労働を強いられた。1944年10月から1年足らずの間に、通訳1人を含む110人が病気や事故で命を落とした。全ての名が裏面に刻まれている。
敗戦から28年後の73年7月に建てられた。その前年、今からちょうど50年前の9月29日の日中国交正常化がきっかけだった。
当時の横川信夫知事を名誉会長とする実行委員会が立ち上がった。県広報課を事務局にして寄付を呼びかけ、約2千万円が集まったという。除幕式には中国大使館の代表など約100人が参列した。
建設翌年の4月、県は旧足尾町に資金の残金や所有権を渡した。管理は町に委ねられ、2006年の合併後は日光市が引き継いだ。
市足尾行政センターによると、旧足尾町は1982年から87年まで塔の前で慰霊祭を営んだ。毎年、中国大使館参事官も招いた。だが、県から引き継いだ資金が底をつくと、旧足尾町主催の慰霊祭は営まれなくなった。
慰霊祭の主体は立正佼成会桐生教会に移り、塔前での慰霊祭は2010年以降はなくなった。同会は同市足尾町の本妙寺で中国人を含めた全死者を供養する慰霊祭を営んできたが、コロナ禍以降は中止している。
中国から復員した宇都宮市の故・猪瀬建造さんは、足尾銅山の中国人や朝鮮人の強制連行問題を追い続けた。慰霊塔建設に関わり、完成の年に約20年間に及ぶ調査結果を足尾銅山の中国人強制連行事件の記録「痛恨の山河」として出版した。
建造さんは、中国北部・山東省での軍事作戦で連行に関わったことがある。かつて「戦利品なのです。働けそうな中国人は、すべて労働力を提供してくれる品物だった」と証言した。
長女の正子さん(72)は記憶を消すように酒を飲んでいた父親を今でも覚えている。「調査や慰霊塔の資金集めに奔走したのは贖罪(しょくざい)の意識からだったと思います」
建造さんの死後、慰霊塔の一部がはがれ落ちた。正子さんらは県や市の対応が消極的だと感じ、14年に公費に頼らず、自費で修復した。
それから8年。塔の劣化が再び進んでいる。慰霊塔に通じる80段余の石段は厚いコケに覆われていた。上り口に立つ記念碑の碑文は、建造さんが文案を練ったという。消えかかった碑文にこうある。
《痛ましい事実を忘れず、後の戒めとするため、悠久の日中友好の願をこめて、県内各界各層全県民の協力により、ゆかりのこの地に慰霊塔を建立した》
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〈足尾銅山〉 江戸初期に鉱脈が見つかった国内最大の銅山。明治期には国内約4割の産銅量を誇った一方、周辺や下流域の住民が鉱毒や煙害に苦しみ、複数の村が廃村になった。衆議院議員だった田中正造が明治天皇に直訴を試みた事件でも知られる。優良な鉱脈を掘り尽くして生産が減り、1973年2月に閉山した。
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