津波5日後、三陸鉄道は動き始めた 運んだのは生きる力

有料記事東日本大震災を語る

聞き手 編集委員・伊藤裕香子
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 東日本大震災の津波はまちも、たくさんの人と人とのつながりも流しました。絶望が覆った岩手県の沿岸で、三陸鉄道の「震災復興支援列車」が動き始めたのは5日後、3月16日のことです。2年後のNHKドラマ「あまちゃん」の中で毎朝駆け抜けた白青赤の列車は、いま、旧JR区間も含めてつながった全長163キロの線路を毎日走ります。人口減の進む地域でこの10年、そしてこの先、三鉄は何を運びますか? 当時社長だった望月正彦さん(69)に尋ねました。

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 「地域の人たちの前に進もうとする気持ち、でしょうか。これからもこの地域で生きていく、そう思う人たちの笑顔、というとかっこいいですが」

 ――震災と津波の直後は、笑顔どころではありませんでした。

 「震災の翌12日には、本社のある宮古駅から隣の駅の手前まで、線路を歩きました。13日に津波警報が注意報に変わったので、まったく状況のわからなかった30キロほど北の七つ向こうの島越(しまのこし)駅まで車で見に行きました。私は運行の素人。でも、線路さえしっかりしている区間があれば、一部でも動かせると思った。線路の上に津波で流された家の屋根がのっていたところもあって、ひどい目にあった。けれどこれなら走れる、と判断しました」

 ――津波をかぶり、がれきが覆って、海沿いの道路は通れませんでした。どのようにして、駅を見て回ったのですか。

 「山道を迂回(うかい)しながらです。趣味の山菜や釣りでよく通っていた、裏の県道を行きました。駅をみて裏道に戻って、また駅に出てと。尺取り虫みたいに、一駅ずつ進んで。雪が降っていて狭くなっていた道で、けっこう車とすれ違ったことを覚えています」

 ――島越駅では、線路が通っていた高架橋がすっぽりなくなり、足もとはがれきで埋め尽くされて、宮沢賢治の詩碑と階段の一部だけが残ったそうですね。

 「山のほうから降りていったら、高架橋と家があって見えないはずの海が、見えたんです。ぞっ、としました。100軒以上あった家が、高台の1軒を残して、みんななくなっていました」

 ――運行はさすがに難しい、と思いませんでしたか。

 「ぼうぜんとしていたとき…

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