ガンプラは「おもちゃじゃない」 若手開発者たちの意地

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構成・矢吹孝文

 「機動戦士ガンダム」のプラモデル「ガンプラ」が1980年夏に発売されてから、今年で40年になる。ガンプラは静岡市清水区にあった工場で開発され、一貫して静岡で生産されてきた。世界的にヒットした商品はどのような場所で生まれ、どのように生産されてきたのか。現場を歩いて当時を知る人に会いながら、その背景をたどる。

生産拠点 ブーム時は24時間態勢

 JR東海道線の清水駅から歩いて約20分。静岡市清水区西久保の住宅街に、6階建てのマンションがある。それと示すものは何も残っていないが、ここはかつて、バンダイ模型の西久保工場があった「ガンプラ誕生の地」だ。

 通りに面した3階建ての事務所に技術部門があり、奥には箱詰め作業場やトラックの配送場があった。もとは地元の模型会社「今井科学」の工場だったが、69年に倒産。バンダイが工場を引き継いで模型事業に本格参入し、71年に子会社「バンダイ模型」の本社をここに置いた。

 近くに住む元従業員の山田勝世さん(83)は今井科学からバンダイ模型に移った。「両方で働いた人はけっこう多い。地元密着の工場で、近所の女性たちの仕事場だった」

 「バンダイ模型には、今井の社風が引き継がれた」と語るのは、近所で金型工場を営む今井科学元社員の男性(79)だ。1959年設立の今井科学は帆船や戦艦などの木製模型から始まり、特撮やアニメのキャラクター商品で60年代のプラモデル市場を席巻した。

 男性は「技術者集団、職人の集まりだった」という。電池やゼンマイで働く「鉄人28号」や「サンダーバード」で「技術のイマイ」「ギミックのイマイ」と呼ばれたが、倒産してバンダイに工場を売り、71年に会社を再建。社名を「イマイ」に変えたが、2002年に再び倒産して業界から姿を消した。

 金型や工場を引き継いだバンダイは東京のおもちゃ会社で、模型を設計、生産するノウハウがなかった。そのため今井科学の元技術者たちが集められ、その若手の中からガンプラが生まれた。最初のガンプラを企画した松本悟さん(72)も、その一人だ。

 70年代のバンダイ模型では「宇宙戦艦ヤマト」や菅原文太主演の映画「トラック野郎」などの模型がヒット。島田市出身の松本さんはその後釜となる商品を探しており、東京のバンダイ本社や栃木県にあった工場との対抗意識から「今井の残党組としての意地があった」。

 企画設計の拠点だった西久保工場に対し、生産の拠点になったのは歩いて15分ほど離れた国道1号沿いにあった袖師工場だ。ガンプラ発売と同じ80年に開設され、ガンプラブームでは24時間態勢で稼働した。

 あまりの人気に、生産は追いつかなくなった。袖師工場の近くに住む女性は、当時を振り返って「よくテレビ局が来て、ここが話題のガンプラ工場です、と中継していた」と教えてくれた。ガンプラが手に入らない子どもが工場に入って盗み、警察が来る騒ぎになったこともあるという。

 西久保工場と袖師工場は2006年に閉鎖され、拠点は車で20分ほど離れた静岡市葵区長沼の「バンダイホビーセンター」に移った。白い建物はカーブを描き、玄関には巨大なガンダムのイラストが掲げられている。プレハブと倉庫からなる工場とは違い、展示や広報の機能も持ったモダンな施設だ。

 初代ガンプラ(144分の1)は全高12・5センチで、白一色のパーツ数は48点。値段は300円だった。40周年を迎えた今年12月、「現時点で究極のガンプラ」をうたう新商品が発売された。全高約30センチ。約90カ所を動かすことができ、パーツ数は660点。税込み2万7500円という大型モデルだ。

 新商品を含めたガンプラは、今でも原則すべて静岡で作られている。

 「ここまで成長した商品に関われて幸せだった」と語るのは、最初のガンプラを設計した村松正敏さん(73)だ。ホビーセンターでも勤務して2012年に退職した村松さんは清水出身で、今井科学の元社員だ。「模型産業が盛んな静岡だから人材が集まった。東京ではガンプラはできなかっただろう」

 ホビーセンターでは増設した新工場が12月に稼働し、生産能力が1・4倍になった。

「機動戦士ガンダム」は1979年に放映が始まり、バンダイ模型が翌80年にプラモデルを発売して「ガンプラブーム」が起きました。40年間で4500種類、累計の売り上げは7億個以上に上ります。記事の後半では、ガンプラの技術者や内職で支えた女性がブームを振り返り、「機動戦士ガンダム」の富野由悠季総監督が、原作者の視点でガンプラを語ります。

■生き残るため、時代取り入れ…

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