第2回ラグビーと別れて入った海軍兵学校 出会った「想像外」

有料記事戦後75年 戦争とラグビー

佐藤祐生
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 自ら望んだこととはいえ、一抹の寂しさをぬぐえなかった。「ラグビーとはもうお別れか」。1942年11月、大阪の旧制天王寺中(現天王寺高)5年生だった柴垣復生(またお)さん(95)=宮崎県高鍋町=は広島・江田島の海軍兵学校に入ることが決まった。

 強豪のラグビー部で主将を務めていた。42年11月1日、戦後の国民体育大会のモデルになった明治神宮国民錬成大会で優勝した。海軍兵学校への合格を知らせる電報が届いたのは、東京・上野の旅館で祝賀会をしているときだった。一度は不合格になっていた。

 第100回全国高校ラグビー大会が27日、大阪・花園ラグビー場で開幕する。1918(大正7)年に始まった大会は、他の競技と同じく戦争による中断を余儀なくされた。楕円(だえん)球を追う少年たちは戦時下、どんな環境に置かれ、どのように復興期を歩んできたのだろう。戦後75年の冬。節目の大会を前に、当時のラガーマンたちを訪ねた。

 「勉強が出来て体が丈夫な連中は海軍か陸軍に行くという時代だった。海軍兵学校といえば、そのなかでも最高の憧れで大変な名誉。それはもう、うれしかった」。チームメートも祝福してくれた。

 兄の影響で中1の終わりからラグビーを始めた。下級生のころはついていくだけで精いっぱいで、「死にものぐるいで練習した」。上達し、体格も変わり、主将を務めるまでになった。軍にいくことは、夢中になっていたラグビーとの決別だと思っていた。祝賀会の夜、明かりの消えた座敷に残り、ボールを抱えて涙を流した。

 12月、江田島に行くと、「…

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