関ケ原後の「分断から結束へ」 細川忠興の「掟書」発見

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今井邦彦

 小倉藩主だった細川忠興(ただおき)が1608年、徳川家康の隠居先となった駿府城(静岡市)の普請(修理工事)に家臣を派遣する際、ほかの大名家とトラブルを起こさないよう、けんかや深酒を禁じた「掟書(おきてがき)」が見つかった。熊本大が発表した。

 当時は国を二分した関ケ原の戦い(1600年)の直後。「分断から結束へ」の転換を求める幕府と、家臣の引き締めに苦心した大名の姿が垣間見える一級資料だという。

 見つかったのは、細川忠興の花押(サイン)が入った原本。細川家筆頭家老の松井家に伝わり、戦後に熊本大に移管された古文書を、熊本大永青文庫研究センターが調査する中で見つけた。

 掟書は13条からなり、普請…

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この記事を書いた人
今井邦彦
専門記者|歴史・文化財
専門・関心分野
歴史、考古学、文化財、サブカルチャー