(ナガサキノート)防空壕で産まれた命、どうしているか

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田中瞳子・25歳
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松本長子さん(1932年生まれ)

 結婚に対する苦悩、必死に隠した顔の傷――。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で開かれている企画展「女性たちの原爆」では、原爆に遭った女性5人の手記や資料などが展示されている。

 そのうちの一人の手記には、戦後に夫を病気で亡くし、2人の子どもとともに途方に暮れた経験がつづられていた。手記を書いたのは松本長子(まつもとますこ)さん(86)。原爆に遭わなくても一家の大黒柱を失うことはある。松本さんの苦しみは「ひとごと」ではないと感じた。

 今も長崎市で暮らしていると聞き、電話で取材をお願いすると、こう言われた。「手記があるでしょう。それ以上お話しできることなんてないのよ」。それでも、40分ほど話しているだけで、手記にはないあの日のことや家族への思いがポツリポツリとこぼれた。そして、こう応じてくれた。「どうしても会いたいと言うなら、そちらに伺いましょう」

 松本さんから直接聞いたことや感じたことには、「手記以上」の内容があふれていた。

 5人きょうだいの末っ子として生まれた。いつも優しくひざに乗せてくれた父。寝るまでそばにいて、遊びに連れて行ってくれた兄たち。甘えん坊の末っ子は、みんなから「まっちゃん」と呼ばれていた。

 今でも恋しくなるのは、仕事で忙しい両親に代わって面倒を見てくれた、お手伝いの「ヨシノさん」。船乗り場まで毎朝送ってくれたり、歌を歌いながら歩いたり、寝る前に童話を読んでくれたりした。家族やヨシノさんに囲まれて過ごした幼少期のことを話す時、松本さんは決まって顔をほころばせた。

 そんな家族との悲しい別れを経験したのは12歳の時。1944年、3歳上の兄・伸(しん)さんが戦争に行くことになった。家族で長崎駅に見送りに行った。「まっちゃん、必ず帰ってくるからね。お父さん、お母さんを頼むよ」。そう言われ、松本さんは伸さんの腰にすがって、わんわん泣いた。伸さんは特攻隊として米国の船に体当たりし、亡くなったという。長崎駅での会話が最後になった。

 松本さんは1945年、長崎市立高等女学校に入学した。記憶にあるのは、毎日学校の運動場に整列し、全校生徒で竹やりを突く練習をしたこと。先生が前に立ち、「突き」と言われたら竹やりを前に突き出す。「胴」と言われたら隣の生徒に当たらないように竹やりを振る。そんな訓練を繰り返した。「今思えば、竹やりが何の役に立つのか。恥ずかしいやらおかしいやら」

 8月9日は学校に着くとすぐに空襲警報が出て、帰宅することになった。松本さんは、爆心地から約2・2キロの稲佐町(当時)にある父・利信(としのぶ)さんの幼稚園の園庭の鉄棒で遊んでいた。「また飛行機が飛んでいる」と思い、空を見上げると、黄色やオレンジ、赤が混ざったような光線が走った。「バリバリ」「ドン」。幼稚園の屋根が吹き飛び、家が潰れる音。地面が浮き上がったような、すさまじい音。松本さんは地面に伏せ、耳をふさいだ。しばらくすると遠くから両親が呼ぶ声がしたが、動くことができなかった。

 しばらくして、しゃがみ込んだ頭を上げて周りを見た。すると、園庭をぼろぼろになった人たちが歩いていた。左耳がなくなり、顔が血だらけの男性。ぼうぜんと歩いている女性が抱いている赤ちゃんは、首から上がなかった。あまりの光景に松本さんは気を失った。利信さんにほおをたたかれて意識を戻し、防空壕(ごう)に入った。

 しばらくすると、妊娠した女性が「助けて下さい」と泣き叫びながら壕に入ってきた。「頭が出てる。ここでお産をするから出て下さい」。母・隆子(たかこ)さんはそう言って、壕に避難していた人たちに外に出てもらうよう頼んだという。隆子さんは1人で出産を手伝った。壕の外に産声が聞こえ、その場にいた人たちみんなで喜んだ。防火用水を、でこぼこした鍋で沸かして、赤ちゃんを拭いた。

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 あの時の赤ちゃんは、元気で…

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