東京高検検事長の異例の定年延長をきっかけにした一連の問題などを受け、法務省に置かれた「法務・検察行政刷新会議」が昨年末に報告書をまとめた。

 せっかく各界の識者が集まったのに、極めて残念な内容に終わったと言うほかない。取りまとめられた提言は「常識から乖離(かいり)しないよう幹部研修を強化する」など、いわずもがなのことばかりで、大部分は委員の個別意見の紹介になっている。

 案の定というべきだ。

 会議の設置は昨年5月、安倍内閣当時の森雅子法相が唐突に言い出した。「検察官の倫理」「法務行政の透明化」などが検討課題とされた。しかし、長年の法解釈を内閣の一存で変更して強行した定年延長の閣議決定や、それを事後的に正当化するものと批判され、廃案になった検察庁法改正案の立案過程などは、議論の対象外とされた。

 要は、支離滅裂な国会答弁を重ね、閣僚の資質がないことを露呈した森氏が、苦し紛れに打ち出した「刷新」でしかなかった。何を期待されているのか、委員たちも困惑しただろう。

 その揚げ句に、前首相の退陣で森氏も途中で法相を辞任。会議は政治の定見のなさ、無責任さに振り回され続けた。

 もっとも個別意見の中には、定年延長問題などに踏み込み、傾聴すべきものも少なくない。

 「法律の解釈変更が大きな関心を呼ぶことは事前に予測できたはずであり、できなかったのであれば組織の能力に問題がある」「内部的な議論の過程まで含めて文書が作成されるべきであり、法務省の取り扱いは公文書管理法に違反する。一からやり直すべきである」――。

 法務省にとどまらず内閣全体でこうした苦言を受け止めなければ、報告書の意義は本当に失われてしまう。安倍内閣の官房長官として一連の経緯に深く関与した菅首相の責任は重い。

 忘れていけないのは、定年延長の閣議決定はいまだ撤回されていないということだ。

 過去の国会答弁を無視し、行政が立法者であるかのように振る舞ったにもかかわらず、前首相らに反省はなく、法務省、人事院、内閣法制局などの官僚も誰一人として責任をとらない。「法の支配」が揺らいだままの深刻な状況が続いている。

 検察の独立とは何か、政治と検察の関係はどうあるべきかという議論も生煮えのままだ。

 森友、加計、桜を見る会、そして検察人事と、政治への信頼を傷つけた数々の問題に菅政権は向き合わず、うやむやにすることを図ってきた。首相の言葉が国民に届かない背景には根深い政治不信がある。そのことに首相は早く気づくべきだ。