朝日賞のみなさん
今年度の朝日賞受賞者の皆さんの業績を紹介します。1929年に創設された朝日賞は学術、芸術などの分野で傑出した業績をあげ、日本の文化や社会の発展、向上に貢献した方々に朝日新聞文化財団から贈られます。正賞として故・佐藤忠良さん作のブロンズ像と副賞(1件500万円)が渡されます。
■常に変貌、ボーダーレスな作品 音楽家・細野晴臣さん(73)
「創作っていう意識はなくて、遊びに近い。遊べないことは仕事にならないんですよね」
気負いなく未知の扉を開き続け、決して同じ場所にはとどまらない。飄々(ひょうひょう)と歩んできた道は、時を経るごとに後を追う者であふれ、広く大きくなっていった。
「聴いてきた音楽はすべてが混じって、横断的につながっている感覚がある」。ロックから沖縄・ハワイなど各地の民族音楽、電子音楽、歌謡曲にエレクトロニカ、アンビエント(環境音楽)……。半世紀のキャリアを通じ、常に変貌(へんぼう)を遂げながら、およそ1人の人間が生みだしたとは思えないようなボーダーレスな作品群を生みだしてきた。
1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」でデビューし、翌年に「はっぴいえんど」を結成。今では日本語ロックの定型を作った最重要バンドとの評価を確立したが、「当時は売れないし、誰が聴いているんだろうと思っていた。何十年後に語られるなんて思ってもみなかった」。
78年に結成した「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」で、コンピューターを用いたテクノ・ポップというジャンルを切り開き、世界の音楽シーンに新風を吹き込んだ。
「たくさん売れなくていい。手売りで元が取れればいいじゃないか」。売れることを第一義に置いた商業主義的な音楽とは一線を引き、「音楽主義」を貫いてきた。とくに90年代以降は肥大化した音楽産業に疑問を抱き、より自然と調和したアンビエントも始めた。
近年は米国や欧州などの海外公演に注力し、米国で作品が再発されるなど再評価の機運が高まっている。
立ち止まらず、視線は常に次を見据える。「去年までのことは終わったこと。今、目の前の現状こそが大事なんです」(定塚遼)
*
ほその・はるおみ 1947年、東京都生まれ。69年デビュー。78年にYMOを結成。2008年に芸術選奨で文部科学大臣賞。18年に音楽を担当した「万引き家族」がカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞。
■歩いて撮る、本質を問い続ける 写真家・森山大道さん(82)
「1枚でも多く撮る」を信条とする、いわば“全身写真家”は、「とにかくカメラがあって、写真があって良かった。いやもう、写真は素晴らしい」と語る。
数多く撮ることを通し、写真の本質を問い続けてきた人だ。人物や風景、社会的な事件といったテーマを設けて撮るのではない。とにかく街に出て、小さなカメラで身体感覚を頼りにスナップを撮り続ける。
「アレ・ブレ・ボケ」とも呼ばれたコントラストの強いモノクロ写真で世界そのものを捉えようとする。甘美な描写とは無縁だ。「世界や人間って、基本的にドロドロしている。それを批判するわけじゃなくて、自分にもあるそういう面に向けて撮りたい」
学校をさぼり、京都や大阪の街を歩き回るのが好きだった青年は、「スポーティーで面白そうだな」と写真の道へ。1961年に東京へ移り、頭角を現した。
さらに「写真の果てまで行きたい」と考えて作った写真集が72年の「写真よさようなら」だ。政治の季節を経た日本の写真や自身の表現に疑問を感じていた。
アレやブレはもちろん、傷のあるコマや新聞の複写、何が写っているのか判然としない写真も載せた。
「写真を解体するつもりが、自分も解体された」ことで一時苦しむが、やがて写真は世界の断片だと思い至る。「写真の魅力は、記録です。自分の生きている個人的な時間しか記録できないが、それが世界全体の記録につながってゆく」
昨年の東京都写真美術館での個展でも、世界の断片としての近作スナップで壁を埋めた。個展のさなかに体調を崩したが、年の瀬には新宿ゴールデン街などを歩き、撮影を再開させた。
「歩いて写真を撮ることにしか興味がない。とにかく目の前のものを撮っておきたい」(編集委員・大西若人)
*
もりやま・だいどう 1938年、大阪府生まれ。商業デザイナーを経て、写真界へ。67年に日本写真批評家協会新人賞。米メトロポリタン美術館など内外の美術館で個展。2019年にはハッセルブラッド国際写真賞。
■量子コンピューターの礎、実現 東京理科大教授・理化学研究所チームリーダー、蔡兆申さん(68) 東京大教授・理化学研究所グループディレクター、中村泰信さん(52)
大ニュースが2019年秋、世界を駆け抜けた。米IT大手グーグルが「量子コンピューターの能力が、既存のスーパーコンピューターをはるかに超えた」と発表し、「ライト兄弟の初飛行のような大きな一歩」と胸を張った。
この画期的な成果へ結びつく重要な土台を、20年前に初めて実現したのが、蔡さんと中村さんだ。NEC基礎研究所の研究員だった1999年、世界初の超伝導型量子ビットの開発に成功した。
コンピューターは0と1の2進法の世界だ。現代のコンピューターはこれを電流の有無で区別し、複雑で大量の計算をしている。ところが不思議なことに、量子の世界ではこの0と1が「重なり合った状態」で扱える。つまり、0でもあり1でもある。そんな奇妙な現象を利用する量子コンピューターを実現できれば、特定の計算を極めて高速化できると期待されていた。
この0と1を重ね合わせる部品が量子ビットだ。量子コンピューターの心臓部にあたる。「難しいが、作れる自信はあった」と中村さん。グーグルは、2人が生みだしたこの超伝導型量子ビットを発展させたタイプを53個並べて、最新スパコンで1万年かかるとされる特殊な計算をわずか200秒で終えたという。
でも……と蔡さんが苦笑しつつ振り返る。「当初は『実用的な意味はあるのか』と何度も質問されましたよ」。量子ビットができても、量子コンピューターを作るには幾重もの壁が立ちはだかり、道のりは途方もないとみられていた。
だが2人の成功をきっかけに、世界中で開発競争が加速。蔡さんと中村さんも大学へと移り、理化学研究所にも研究チームを構えて一層の研究を重ねてきた。
今、成果を大きく開花させているのは海外の巨大企業だ。日本の遅れは否めない。「残念でない、とは言わないが……」と蔡さん。中村さんは「でも我々の研究成果が発展していくのは、子どもの成長を見るよう」。実用的な量子コンピューターの実現に向け、量子ビットの一層の性能向上へと闘志を燃やしている。(伊藤隆太郎)
*
ツァイ・ヅァオシェン 1952年台北市生まれ。75年、米カリフォルニア大バークリー校卒。83年に米ニューヨーク州立大で博士号取得、NEC入社。2015年東京理科大教授。理化学研究所チームリーダー兼務。
*
なかむら・やすのぶ 1968年大阪府生まれ。90年東京大工学部卒。92年同大学院修士修了、NEC入社。同社基礎・環境研究所主席研究員などを経て2012年東京大教授。理化学研究所グループディレクター兼務。
■数学分野を横断する理論、駆使 京都大教授・望月拓郎さん(48)
数学を、未知の世界への探検に例える。「『こんな場所があるらしい』とわかると、行ってみたくなる。たどり着くとすばらしい風景があって、さらに知らない世界が広がっている」
2011年に出版した論文で微分方程式に関する「柏原予想」を証明した。日本を代表する数学者の柏原正樹氏が1996年に提唱し、「半世紀は解けない」とされた難問だ。
微分方程式は、熱の伝導や波の運動など、多くの自然現象を理解するのに使われる。複雑な式だと答えを出すことはおろか、性質を調べることすら難しい。
望月さんが駆使したのが、数学の各分野を横断する理論だ。数学には方程式を扱う「代数」、図形や空間を扱う「幾何」、微分・積分を扱う「解析」の3分野がある。幾何と解析が重なる側面から「調和バンドル」を、代数と解析が重なる側面から「ツイスターD加群」をそれぞれ研究。二つの理論を組み合わせて予想を証明した。
その後も研究を深め、発展させた理論は、「21世紀の数学の基盤になり得る」と期待される。
京大1年のとき、ものの形に潜む性質を調べる数学「トポロジー」の本に出会った。「計算で答えを出す高校までの数学からガラッと変わった」。数学的な議論を積み重ね、さまざまな定理を証明することに夢中になった。大阪市立大に赴任したころまでは、「色々なものに手を出して、対象がふらふらと定まらなかった」。さまざまな数学に触れたことが、今に至る素地になった。
別々に見えたものが、実は同じものの別の側面だった――。そんなものごとの「同値性」が一貫する研究テーマだ。数学のもっと深い世界にはどんな景色が広がっているのか。これからも一歩ずつ探っていく。(野口憲太)
*
もちづき・たくろう 1972年生まれ、長野県で育つ。99年京都大大学院博士修了。同年大阪市大助手、2004年京大助教授、08年同大数理解析研究所准教授。12年から同教授。14年に国際数学者会議で全体講演。
■選考委員(敬称略、☆は新任)
渡辺雅隆(朝日新聞文化財団理事長・朝日新聞社社長)=委員長
青柳正規(多摩美術大学理事長)
伊東豊雄(建築家)
上野千鶴子(社会学者)
梶田隆章(東京大学特別栄誉教授)
榊裕之(前豊田工業大学学長)
田中啓二(東京都医学総合研究所理事長)
☆中村史郎(朝日新聞社副社長コンテンツ統括)
野田秀樹(劇作家・俳優)…
有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。
【春トクキャンペーン】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら