(声)つなぐ・伝える 空襲に逃げ惑った日々、忘れぬ

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 無職 井上孝(東京都 87)

 1944年8月、国民学校6年生だった私は病弱のため集団疎開に参加できず戦火の東京に残った。だんだん米軍爆撃機B29による空襲が激しくなり、毎晩2回も3回も空襲警報が発令されるようになった。私は銀座のど真ん中に住んでいた。空襲のたび直ちに身支度を整え、防空頭巾をかぶり…

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