「全てなくなった」焼け野原に一本桜 空襲時代を生きた96歳の記憶

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関田航
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 1941年春、東京・杉並。殺風景な路地の奥にある古い家が、これから住む家だった。家族6人、京都からの長旅の末にたどり着いた「うらぶれた場所」。当時12歳だった脇坂禮子(れいこ)さん(96)は、心身ともに疲れ果てていた。

 もう夕暮れ時だった。雨戸を開けると、薄ピンクの大きな固まりが目に飛び込んできた。庭に咲く満開の一本桜。「ぱあっと目の前が明るくなったの」。一瞬で晴れやかな気持ちにさせてくれた。

連載「桜ものがたり」一覧

 桜の風景とともに思い出す大切な記憶。読者のみなさまから寄せて頂いた、桜の物語をお届けします。

 その年の12月、太平洋戦争が始まった。生活は徐々に苦しくなり、米は食べられなくなった。配給のミカンの皮を具に、みそ汁を作って食べた。

 米軍の爆撃機が頭上を飛び交うようになると、桜の木の下に、身をかがませてようやく4人入れるほどの小さな防空壕(ごう)を掘った。空襲警報が鳴るとそこへ飛び込み、桜に守られるように眠りについた。

 45年3月10日、東京大空襲で、都心部は壊滅的な被害を受ける。一家は兄を残し、父の実家がある現在の福島県白河市に疎開することになった。

 疎開先での生活が2カ月ほど過ぎた5月、黒く汚れ、よれた服を着た兄が突然、姿を現した。疲れ切った様子で玄関に座り込み「全部焼けたよ」。東京の区部の西側に米軍が焼夷(しょうい)弾を投下した山の手空襲から、命からがら逃げてきたという。

 苦労して手に入れた切符を手に鉄道で東京に向かい、阿佐ケ谷駅に降り立った。比較的被害が少ない駅前を抜けると、自宅周辺は一面の焼け野原。家々は土台だけ残り、こっぱみじんになった屋根瓦やせとものが転がっていた。「全てなくなってしまった」。足元に気をつけ、庭があった場所で視線を上げる。桜が一本、ぽつんと立っていた。

 「無事だったの。よく残って…

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    白川優子
    (国境なき医師団看護師)
    2025年3月30日14時11分 投稿
    【視点】

    戦争は命を奪うだけではなく、市民の暮らしや人生を奪います。いくら戦争が終わったとしても、生き延びた人々らにとって「これからも生きていく」という長い戦いが始まります。世界の多くの紛争地に看護師として派遣されてきましたが、末端の多くの市民が苦し

    …続きを読む