きっかけは32年前の「焼き肉会」 日朝友好の高校サッカー・平和杯

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宮崎亮
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 在日コリアンの生徒が通う朝鮮学校と日本の高校サッカー部の大会「平和杯(ピョンファベ)」が3月24~26日に広島市などで開かれる。朝鮮学校が全国大会に出られなかった時代、日朝友好を旗印に日本の高校が協力して始まった。今回で30回目を迎え、人のつながりが広がっている。

 平和杯のキックオフは1994年3月。きっかけは前年の秋だった。広島朝鮮初中高級学校の当時の監督、高隆志(コリュンジ)さん(58)が部の後援会長だった故・白漢英(ペクカンヨン)さんの営む焼き肉店を訪れた。近くの高校のサッカー部監督3人も一緒にいた。

 肉をつつきながら、白さんが切り出した。「全国の強豪校を呼んで広島で大会を開けんかな」。高さんも続いた。「『日朝友好の架け橋』をテーマにしたいんです」

 その場で「ぜひやりましょう」と話がまとまった。同席した一人で、広島市の山陽高校男女サッカー部総監督の田中良和さん(66)は振り返る。「よく練習試合をした広島朝鮮は本当に強かったし、生徒もよく努力していた。全国大会に出られない規制を早く撤廃してほしいと思っていた」

 高さんは付き合いのある他県の高校の監督に次々と電話し、西日本12校の参加が決定。強豪が多く、4校は直後の全国高校サッカー選手権大会に出た。その後全国高校体育連盟が方針を変え、朝鮮学校はインターハイや選手権大会の予選に出られるようになった。2001年に広島朝鮮がインターハイに初出場すると、周りの高校の監督らが祝賀会を開いた。

 広島市の崇徳高校の監督、重里(じゅり)求昭さん(51)は広島朝鮮の歴代監督と付き合う。卒業生を自校のコーチに招いてもいる。「若い頃、高さんが僕を可愛がってくれたしね」。昨夏は両校の部員と監督で広島朝鮮の運動場に集まり、焼き肉パーティーをした。「子どもらはまあ、勝手に友だちになりますよね」

 重里さんと家族ぐるみで交流してきた高さんだが、若い頃は日本の先生と接するのが苦手だった。小学校から朝鮮学校で過ごし、「日本社会の朝鮮人への偏見や差別を何となく肌で感じていた。無意識に壁を作っていた」

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この記事を書いた人
宮崎亮
広島総局次長
専門・関心分野
子ども・若者・教育・差別と人権・自由と抑圧
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    平尾剛
    (スポーツ教育学者・元ラグビー日本代表)
    2025年3月19日16時25分 投稿
    【視点】

    サッカーを通じて差別や偏見をなくす。スポーツとは本来、こういう役目を果たすためにある。 商業主義や勝利至上主義の波にのまれて分断が助長され、スポーツの社会的、文化的な意義が薄れつつある昨今だからこそ、この記事は多くの人に読まれてほしいと切

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