出産直後に末期がん宣告 やれることやって「きれいな履歴書」捨てた

いつも、どこかで

若松真平

 「社畜の海野P」

 海野優子さんはかつて、そう呼ばれていた。

 自ら立ち上げたウェブメディアのプロデューサー(P)として働いていた時のことだ。

 広告を出稿してくれるクライアントを探したり、営業を兼ねてイベントや飲み会に参加したり。

 「頑張れば頑張っただけ成長できる」と思っていたし、他人にもそれを求めていた。

 思い描いていたキャリアプランもあった。

 20代はがむしゃらに仕事をして、30代前半で結婚。

 1人目を出産したら、3~4カ月で職場復帰する。

 30代後半で新規事業を立ち上げてマネジメントを経験。

 2人目を産んで、40代で大きな事業を任されて責任のある仕事をする――。

 順調に人生のコマを進めていたはずが、転機は突然やってきた。

突然の宣告

 32歳で結婚し、転職してメルカリでPR担当を務めていたころ。

 妊娠7カ月ぐらいから、腰痛がひどくなっていた。

 おなかが重くなった妊婦のあるあるだと思っていたが、松葉杖がないと歩けないほどに。

 ついには、車椅子で定期健診に通うほど悪化した。

 「妊娠による骨盤への負担に加えて、ヘルニアを併発しているかもしれないですね」

 医師からそう言われたが、妊娠中なのでX線検査はできないし、強い痛み止めも使えない。

 もともと無痛分娩(ぶんべん)での出産を希望していたが、分娩台に上がることも難しく、帝王切開で産むことになった。

 2018年8月、2600グラムの女の子が生まれた。

 術後、我が子との対面を果たした後、医師からこう告げられた。

 「帝王切開でおなかを開いたとき、左腹部に腫瘍(しゅよう)のようなものを確認しました」

 検体をとって詳しく調べることになったが、「腫瘍なんて取ればいいんでしょ?」と軽い気持ちでいた。

 検査結果は「原発不明の後腹膜悪性腫瘍」。

 大きさは直径14センチで、腫瘍は背骨に浸潤しており、手術で取り除くことは不可能とのことだった。

 医師は、夫に対して「ステージ4相当の末期がんです」と告げていたそうだ。

 妊娠中の腰痛や出産後の左足まひの原因は、腫瘍が神経を圧迫していたためだった。

 4年前に実父が末期の肺がんで亡くなっていたので、「自分もあと数カ月で死ぬんだ」と思った。

 我が子を抱いて幸せの絶頂にいた33歳は突然、奈落の底に落とされた。

1ミリでも生きられる可能性があるなら

 「時間がないんだから判断を急いで、やれることをやろう」

 夫婦で話し合い、そう決めた。

 看護師が乳児院を紹介してくれたので、まな娘を預けて治療に専念することに。

 母乳をあげられたのは、わずか3週間ほどだった。

 日に日に成長する我が子との別れは、想像していた以上につらかった。

 3カ月にわたって抗がん剤治療をしたが、目立った効果は出ない。

 どんなに目を背けていても、死に向かって一歩ずつ進んでいるのを感じた。

 そんな中、夫がネットで医学論文を読みあさり、最新の治療法を調べて提案してくれた。

 ネット企業を経営し、情報収集を得意としている夫の協力は心強かった。

 「1ミリでも生きられる可能性があるなら、あらゆる治療をやってみよう」

 その言葉を聞いて、死への歩みが止まり、生への道筋が見えてきた気がした。

 そして新たに、免疫の力を使ってがんを攻撃できるようにする薬も検討することになった。

 自分のがんに対して、この薬が使える可能性は低い。

 主治医からそう聞いていたが、「使えることになりました」と電話がかかってきた。

 電話を切った直後、夫が言った一言が忘れられない。

 「俺ら勝ったな!」

 結局、どの治療の効果なのかはわからないが、腫瘍の大きさは4割ほど小さくなった。

 ここ数年は大きさに変化はなく、腫瘍マーカーの数値にも変動はない。

 左足は動かないままで、痛み止めも手放せないが、車椅子で日常生活を送れるまでになった。

 出産から1年ほど経ったタイミングで、noteに「がん宣告から復活までの1年間」という文章を投稿した。

 「どうせ死んでしまうんだから連絡しても意味がない。心配もかけたくないし」

 そんな思いで連絡を絶っていた友人たちに、近況報告をしたくなったからだ。

 そこには、夫への感謝がこうつづられている。

 「夫婦という、紙切れ一枚では語り尽くせない、それ以上のつながりを感じることができ、彼と出会えた自分はなんて幸せなのだろうと改めて実感しています」

できないことを認める難しさ

 メルカリのPR担当として復職したが、自ら希望して人事部の障害者雇用チームに異動。

 聴覚障害や精神障害のあるメンバーのマネジメントや、パラアスリートのサポート業務などを担当した。

 そこで気づいたことが「できないことを認める難しさ」だった。

 自分が車椅子生活になったことで、実感を持って理解できたことだ。

 かつては、頑張れば頑張っただけ成長できると思っていたし、他人にもそれを求めていた。

 きっと、過去の成功体験が邪魔をするのだと思う。

 自らに対しても、他人に対しても、できないことを認めるのは難しい。

 いっそ、できないことに目を向けるより、できることを見つけて伸ばすことができたらいいのに。

 そんなことを思っていた時に「ヘラルボニー」の存在を知る。

 主に知的障害のある作家の描くアートデータのライセンスを管理し、国内外でビジネス展開している企業だ。

 作品の美しさ、商品としての魅力にひきつけられて昨年8月、ヘラルボニーに転職。

 入社して作品のことを知るにつれて、こう思うようになった。

 「ブレーキをかける人が誰一人いない世界で描かれた作品。作家の才能が100%解放されている」

どうしたらワクワクするか

 新しい職場は、これまで培ったものが生かせて、自分が求めている価値を実現できる場所だった。

 健常者として暮らしてきて、今は車椅子で生活している自分だからできることがあるはず。

 「障害のイメージを変える」という会社のミッションは、まさに自分事だった。

 障害というテーマに向き合うことで新しい価値観が生まれる、と思うとワクワクする。

 人々がまだ気づいていないことを伝える魅力は、メディア運営時代と通じるものがあった。

 現在は、自社のECサイトやSNSなどを運営するブランドコミュニケーションチームで、マネジャーとして組織運営も担っている。

 心がけているのは「どうしたらこの人はワクワクするかな?」ということだ。

 シンガーとして活動しているメンバーには、作家の魅力を伝える記事を書いてもらう。

 「同じ表現者として、方法は違っていても通じる部分はあるし、きっとあなたにもプラスになるはずだから」と伝えて。

 仲間に成長を求め、ダメだと思ったら自分が仕事を引き取っていたころと比べたら、大きな変化だ。

見ることができなかった景色

 今夏、都内で「ヘラルボニー・アート・プライズ」の授賞式があった。

 障害のある作家のキャリアを後押しするべく開催された国際アートアワード。

 その授賞式で、ハプニングが起こった。

 ヘラルボニーの共同代表・松田崇弥さんらが最後のあいさつをしていた時。

 何人かの作家が突然、壇上に上がった。

 それを見た松田さんは、笑顔でマイクを手渡し、「何か言いたいことは?」と話を振る。

 マイクを受け取った作家が「もう終わりの時間です!」と言った瞬間、会場は大きな笑いに包まれた。

 過去の自分だったら、きっと見ることができなかった景色がここにある。

 20代のころに思い描いていたキャリアプランと比べたら、39歳の現在地は大きく異なっている。

 でも、かつて理想としていた「きれいな履歴書」は、もう必要なくなった。

 かけがえのない家族がいて、ワクワクする仕事があれば、それで十分。

 だって、無駄にしていい時間なんて私にはないんだから。(若松真平)

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若松真平
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