「エモい記事」をめぐる議論が注目を集めています。一石を投じたのは、3月にRe:Ronから配信された社会学者・西田亮介さんの論考。エピソード主体の記事について、ネット時代の新聞に求められる役割とからめて批判的に論じ、問題提起しました。
エピソード主体の記事は、昔から新聞で書かれてきたもの。その是非を今、どう考えるか。朝日新聞の論壇時評筆者を務めたメディア研究者で、東京大学大学院教授の林香里さんに聞きました。
――この論考には識者らから多くのコメントが寄せられました。「既存メディアの役割は、共感や感情で人々に訴える記事ではなく、客観的なデータに基づいた論理的で冷静な記事」などと論旨に同意する意見も複数ありました。ほかのメディアにも是非をめぐる議論が広がっています。
この論考がこんなに話題になったことに驚いています。記事では、「データや根拠を前面に打ち出さず、エモーショナルな内容のエピソード主体の記事」と、「ファクトが中心の記事」が分けて論じられています。
ですが、ジャーナリズムを「エピソード=感情的」、「データ=冷静」と二項対立させるような論じ方に疑問があります。
データやファクトを伝えるだけでなく、人に訴えるエピソードがなければ世の中は動きません。この二つをうまく組み合わせたストーリーをつくることこそ、ジャーナリズムの役割です。
政治研究では、ファクトやデータよりも感情や共感の方が政治を動かすという研究結果があります。ある時期までは、人々はファクトから合理的判断を下して行動を選択するのだという考え方が優勢でしたが、実際には政治は感情で動く。たとえば人々の投票行動は、むしろ共感、怒り、悲しみなどの感情に突き上げられた結果なのだという知見は、たとえば母子家庭で育ったビル・クリントン元米国大統領の選挙キャンペーンの事例で脚光を浴びました。1990年代のことです。日本では、吉田徹氏などが政治と感情について詳細に議論しています。彼の著作『感情の政治学』(2014年)の冒頭では、財政破綻(はたん)した北海道夕張市の都市計画が進まなかった一因として、銭湯通いを楽しみにしている高齢者たちの反対があった事例などが挙げられています。こうしたことからも、エピソード記事はいい意味でも悪い意味でも重要です。ソーシャルメディアが隆盛の今、このような知見をジャーナリズムにおいてどう位置づけるか、さらに研究が進んでいます。
現実には、記者はファクトを並べるだけでなく、課題の背景を掘り下げ、解決に向けて何ができるか、読者に建設的思考のきっかけを与えるような「共感を呼ぶジャーナリズム」をどうつくっていくかも問われています。そのためにはエモーショナルなエピソードとデータやファクトを別々のものとするのではなく、相互補完的に提示することが重要です。
――データやファクトか、エモーショナルなエピソードかという分け方ではないということでしょうか。
記者が問われている
そもそも世の中の課題は、データのみでも、感情のみでも伝えられるものではありません。
何より、記者は社会で起きている事象の第一発見者として、いまだ「ファクト」も「データ」も存在しない、声にもならない問題があるという前提でいることこそ必要ではないでしょうか。たとえば子どもの貧困という問題は、当事者の声が聞こえるようになり、それが少しずつ伝わるようになったことから、実態調査などが進み、対策法もできました。見えていなかった課題を最初に記録するのがジャーナリズムの役割でもあります。
必要な情報を皆で共有するためのツールの一つとして、感情に訴求することが一概に悪いとは言えません。結論ありきの独善的記事は論外ですが、それは一見データ偏重の記事でも起こります。要するに、データであれエピソードであれ、問題をどこまで掘り下げることができるかという記者の基本的資質が問われているのではないでしょうか。
さらに、ファクトやデータを持ち上げ、エモーショナルで主観的なエピソードの記事を下に置くような論じ方も気になります。
そうすることによって結局、ファクトやデータを持つ人たちの権力を承認することにもつながらないでしょうか。一言でデータ、ファクトと言っても、それがあたかも真空の中で中立的に存在するわけではありません。これらがどのような社会の関係性と権力の網目の中でつくられているのか。そして、それらを所有している主体はだれなのか。調査データがもつ暴力性については、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930~2002)をはじめ、多くの社会科学者が指摘してきたところです。
――林さんは21、22年度…