「国策都市」面影残す鉄道遺構 保存か開発か、波紋呼んだ副市長答弁

有料記事

興津洋樹 城真弓
[PR]

 北九州門司区で明治期の鉄道遺構が見つかり、その扱いをめぐって議論が過熱している。現場は、市の複合公共施設の建設予定地。市は遺構の一部のみ移築して残りは壊す方針だったが、専門家らは「高輪築堤並みの価値」「国史跡級」と現地保存を求める。市議会も市の姿勢を疑問視し、予算案が修正される騒ぎに発展している。

 遺構は、駅舎外郭の石垣や、機関車庫のコンクリートの基礎、れんが壁の一部など。明治、大正期の建築が残る観光名所・門司港レトロ地区の、JR門司港駅近くの区画で見つかった。

 現在の駅舎は1914(大正3)年に建てられた2代目で、ネオルネサンス様式の建物は国の重要文化財に指定されている。一方、今回の遺構はそれ以前の1891(明治24)年に九州鉄道の起点「門司駅」として開業した初代の施設とみられる。

 土に埋もれた基礎部分のみが残り、一見すると地味だ。だが、その構造が専門家たちの注目を集めている。

 たとえば車庫。出土した部分は長さ約32メートル、幅約11メートルの長方形で、3分の2程度は元々の陸地、残りは駅建設の際に埋め立てた土地にまたがって建てられたとみられる。

 それぞれの基礎を比べると、陸地側は型枠を用いずに地盤を掘って直接コンクリートを流し込む西洋式の技術が用いられている。一方、軟弱な埋め立て地側では、砂利と丸太を基礎の下に配して沈み込まないようにする江戸時代の技術が使われ、その上に西洋式のコンクリートの構造物が造られていた。

 こうした「日本と西洋の土木技術の融合」を直接目にできる遺構は極めて珍しく、特有の歴史を持つ門司ならではの発見だという。

明治期に現れた「国策都市」

 現在の門司港一帯は、かつて塩田が広がる寒村だった。

 だが、明治になって産業の近代化が進む中、九州と本州をつなぐ関門地区の開発は喫緊の課題となる。

 北九州市史などによると、1880年代後半に「お雇い外国人」のオランダ人技師ムルドルら内務省調査団が一帯を調査。その後、門司港の建設が計画され、1889年にはまだ整備が始まったばかりにもかかわらず石炭などの「特別輸出港」に指定された。

 初代「門司駅」が開業するのはその2年後だ。

 94~95年の日清戦争、1…

この記事は有料記事です。残り1923文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【本日23:59まで!】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら