家族を失い、仕事なくした男性 震災から止まった時を訪問者が動かす

酒本友紀子

 13年前の東日本大震災で人生の歯車が狂った。津波で母を亡くし、原発事故で仕事を失った。県外に避難した妻には別れを告げられた。家の一室に引きこもり、酒で寂しさを紛らわせる日々。徐々に心がむしばまれていく男性の元を、ある女性が訪れるようになる。次に会う約束を忘れない女性の存在が、人生を取り戻すきっかけになった。

 居間の片隅に置いた棚に、音楽ライブのDVDやCDが大量に入った箱が積み上がっている。寂しさを紛らわせていたオーディオ機器はもうなく、箱にうっすらとホコリがかぶる。

 「今はYouTubeで何でも聞けるからね」。1月、福島県南相馬市原町区の復興公営住宅で暮らす渡辺茂さん(69)は明るく言った。

 2011年3月の東日本大震災で家族を失い、始めようとしていた仕事も見通しが立たなくなった。かつて住んでいた戸建ての一室でオーディオ機器や5台以上のテレビモニターに囲まれ、引きこもった。音楽や映画が趣味でつくった15畳のオーディオルーム。

 「自分の気持ちがどこにあるか分からなくなって、意味もなく涙が出た。今思えばうつ状態だったんだろうなぁ」

 20代でブティックを経営し、喫茶店やバーも始めた。バブル期には最大5店舗を経営。地元から南約25キロに東京電力福島第一原発があり、外国人の原発技術者らも店にきた。英語が飛び交う繁華街のちょっとした有名店。妻と2人でがむしゃらに働き、休日は家で映画を見たり、コンサートに出かけたり。

 震災の数年前、親の介護のため店をたたんだ。心機一転、運送業を始めようと軽バン3台を購入した。

 震災はその直後だった。

暗転した日常

 南相馬市の近辺に到達した津波は最大9メートル以上。海岸近くの老健施設に入っていた母が亡くなった。

 第一原発では爆発が相次いだ。地震発生の4日後、三つ目の原子炉建屋が爆発し、自宅周辺に屋内退避の指示が出た。

 妻は市内の義両親と県外へ避難したが、飼っているチワワの「クー」のことが気がかりだった。放射能から逃れようとクーを車に乗せ、市外の道路脇で寝泊まりすること1週間。ガソリンが尽き、自宅に戻った。

 妻との連絡は次第に減った。時折、電話で原発事故の賠償請求手続きについて話すだけ。運送業の話も立ち消えになり、亡き母のことを考える時間が増えた。

 実家の母を施設に入れる時、きょうだいの話し合いで反対しなかった。結果的に、死期を早めることになったのではないか。もっと会いにいけば良かった――。

 震災2年後には、姉が突然死した。父もすでに他界していた。

 オーディオルームで、クーと1日のほとんどを過ごすようになった。酔いが覚めないようハイボールを少しずつ飲んだ。店で流していたサザンオールスターズやユーミンのライブDVDを見て懐かしんでは、椅子でうつらうつらと仮眠。何もやる気が起きず、何日も入浴しないのが当たり前になった。

 時折、「誰かの胸で思い切り泣きたい」と思ったが、それはかなわなかった。

一緒に泣いてくれた人

 さらに1年ほど経った14年ごろに、妻が戻ってきた。「仕事もしないで」と愚痴られ、まもなく離婚届を置いて出て行った。

 子どもはおらず、老後は2人で穏やかに暮らすのだろうと思っていた。どうしたらいいのか。急に、うろたえた。

 ある日、布団の上でおしっこを漏らしたクーに、「何してるんだ!」と手をあげた。そばにいてくれる唯一の存在なのに、ついカッとなってしまった。

 「このままでは自分が何すっか分からない」。行政の相談会に出向くと、「相馬広域こころのケアセンター」(通称「なごみ」)を紹介された。

 初めて訪れたのは、16年1月。出迎えてくれた臨床心理士の足立知子さん(41)に打ち明けた。

 妻が出て行ったこと。

 母と姉を失ったこと。

 仕事もなくなったこと。

 「うんうん」と相づちを打つ足立さんに語りかけているうち、涙が止まらなくなった。足立さんもポロポロと泣いている。ようやく、温かい心で受け入れられた気がした。

 足立さんからは「PTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状だ」と言われた。生活状況を気にしているようで、「家に行かせてもらえませんか」と頼まれた。

 部屋を見せる勇気はなかった。自分をすべてさらけ出さないといけない気がして、ちゅうちょした。

 それでも、なごみには通い続けた。

 「この5年間って何だったんだろう」

 「何とか生き抜くための5年間だったんだよね。だから今があるんじゃないのかな」

 否定せず、耳を傾けてくれた。半年後、包み隠さず語れるようになって、自宅に招いた。

つらさを断ち切る作業

 居間の所々に、飲食店を経営していた頃の食器や灰皿などの備品があった。妻の荷物もそのまま。庭に放置した軽バンにも備品を詰め込んでいた。震災当時から、時が止まっているかのようだった。

 中でも、オーディオルームに並ぶテレビモニターだ。毎年3月11日前後になると、震災報道から目が離せなくなり、母を思い出しては落ち込んでいた。

 「一緒に片付けましょう!」

 足立さんにそう言われて整理が始まった。オーディオ機器やモニターはリサイクルショップに引き取ってもらった。片付いたオーディオルームには、植物の鉢を置き、家具の配置も換えた。震災後のつらさを断ち切る作業になった。「うまくいかないことを東電のせいばかりにしていたかもしれない」と思えた。

 足立さんは必ず、次に会う約束をしてくれた。毎月の訪問が待ち遠しくなり、生活は楽ではないのに、ケーキとコーヒーを用意した。日々の支えができた気がした。

 18年に運送の仕事を始めた。だが、家のローン返済が重くのしかかり、食費を削って体調を崩した。仕事を諦めざるを得なくなって、また孤独感が深まった。

 そんな時、なごみに料理や木工の集いなどに誘ってもらって気づいたこともあった。

 「人との出会いが化学反応を生む。飲食店をやっていると、そういうのが楽しかったんだよな」

 自己破産を決断し、自宅も処分。なごみのスタッフが、生活保護の受給手続きや家探しを手伝ってくれた。21年に復興公営住宅に入った。

 もう一度、生活を仕切り直した。

 なごみが主催する鍋パーティーで料理の腕を振るい、会話で他の利用者を和ませる。復興公営住宅ではごみを拾い、ベンチで年配の住民と世間話に花を咲かせる。ひとり親家庭の子どもの自転車を修理し、学校の出来事を聞いた。

 「これからの10年をどう生きるかって考えた時に、やっぱり地域への恩返し。まずは身近なところから」

いつも通りの会話の先にある別れ

 2月8日。足立さんが自宅にやってきた。

 「最近、アルコールはどう?」

 「変わらないよ」

 「体はどんどん衰えてくるんだからほどほどにね」

 いつもと変わらない会話。

 これが最後の訪問だと告げられた。

 足立さんは今春、福島で結婚した夫や子どもとともに、地元の島根県に帰る。

 「大きい出会いだった。足立さんに恥じないように生きるって思ってきたんだよ」。しんみりと振り返った。

 最近は、なごみスタッフからイベント企画の相談を受け、地域でも自分の役目を果たそうとしている。

 「なごみのホームページに登場するのを楽しみにしてるからね」

 そう言われ、お互い笑顔になった…

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この記事を書いた人
酒本友紀子
福島総局
専門・関心分野
共生社会、人権、司法、国策と地方
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    富永京子
    (立命館大学准教授=社会運動論)
    2024年3月11日13時42分 投稿
    【視点】

    災害によって傷ついた人が誰かに弱さを語る、あるいは見せるということの難しさと時の重さについて考えさせられる、とても良い記事でした。福島県飯舘村長泥地区の被災後の調査を10年以上続ける、文化人類学者トム・ギル先生のエスノグラフィーを彷彿とさせ

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