仁木家の書画、明治維新を語る 津山洋学資料館に91点寄託
【岡山】明治時代の自由民権運動に加わり、「美作の板垣退助」と呼ばれた津山出身の医師、仁木永祐(えいすけ、1830~1902)が出た仁木家が、書画の掛け軸91点を津山洋学資料館(津山市西新町)に寄託した。幕末に活躍した幕臣の勝海舟や笠間藩(茨城県)の儒学者、加藤桜老(おうろう)の書もあり、仁木家の幅広い交流関係がうかがえる貴重な資料だという。
資料館によると、永祐は現在の津山市加茂町の出身で、籾保(もみほ、当時は籾山村)の医師、仁木隆助の養子になった。江戸に遊学し、津山藩の藩医で洋学者だった箕作阮甫(みつくりげんぽ)らに蘭方(らんぽう、オランダから伝わった医術)などを学び、帰郷して籾保で開業した。明治維新後は自由民権運動に参加。1889年に国会の開設直前に上京し、政党間のまとめ役を務めた。
勝海舟は戊辰戦争時に官軍の参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城に尽力した。書は勝が維新当時を回想したもの。永祐の次男、清次郎が83年、上京した際に勝を訪ね、頼んで書いてもらったもので、父への土産にしたという。
加藤桜老は尊王を掲げて多くの志士や文人と交流し、明治維新の陰の功労者と評された人物。維新前夜の京都では尊王攘夷(じょうい)派と公武合体派の勢力図が二転三転するなか、63年の八月十八日の政変で公武合体派が巻き返し、尊攘派急先鋒(きゅうせんぽう)の7人の公家は都を追われて長州へ向かう。いわゆる「七卿落ち」で、加藤も同行した。
書にある漢詩は加藤が長州に向かう船で京都を案じながら詠んだもので、書自体は83年に書かれたものという。
津山藩の8代藩主、松平斉民(なりたみ、号は確堂)の山水画も寄託された。斉民は11代将軍の徳川家斉の子。幕末に黒船で来航したアメリカ海軍のペリー提督から開国を求められた幕府が、大名や旗本に意見を募った際、斉民は「速やかに開国すべきだ」と主張したことで知られる。洋学者を多く抱えた津山藩だけに世界情勢を正確に把握していたとされている。
仁木家はこれまでも、永祐の孫で津山商業高校の教員だった故・士弘さんが杉田玄白の「解体新書」をはじめとする医学書などを資料館に寄託してきた。今回の91点は、現在の仁木家の当主、亨さん(大阪在住)が寄託したという。
小島徹館長は「仁木家の幅広い交流を裏付ける資料で貴重。今後は寄託された書画を詳しく調査をして、企画展などで公開していきたい」と話している…
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