泣く妻の下腹部にあった15センチの傷 優生思想「むしろ戦後拡大」
28歳の小林宝二(たかじ)さんが仕事から帰ると、妻が泣いていた。「赤ちゃん、捨てた」。下腹部に、ホチキスでとめたような15センチの痕があった。
東京五輪を4年後に控えた1960年夏、兵庫県明石市。ともに耳が聞こえない小林さん夫婦に説明もないまま、親同士が話し合い、妻に中絶手術を受けさせていた。
小林さんは、そばにいた母に手話で「どういうことだ」と詰め寄った。母は手でバツ印をつくった。「赤ちゃん、ダメ」
戦後、障害者らに不妊手術を強いた法律があった。旧優生保護法(48~96年)。「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に96年まで約2万5千件の不妊手術が行われた。
そのルーツは、40年に成立した国民優生法にある。
20世紀初め、近代化が進む英米を中心に、遺伝的に「劣悪」な人間を減らし「優秀」な人間を増やす優生学を採り入れた政策が進められた。33年にはナチス・ドイツが強制断種を可能にする遺伝病子孫予防法を制定。軍国主義を強める日本も、38年に発足した厚生省に優生課を設けた。「悪質な遺伝性疾患」の増加を防ぐ目的で国民優生法を制定し、精神病者や身体疾患者への不妊手術を促した。徴兵制で、障害者は「丁種(兵役不適)」とされた。
政府は個人の結婚や出産にも介入した。「結婚十訓」として「心身共に健全な人を選べ」と啓発。東京の百貨店に相手探しや避妊の相談にのる国立の「優生結婚相談所」を設けた。
日本が太平洋戦争に突入する前年の1940年、障害者が生まれないようにする法律が制定されました。国民優生法。戦後、この法律は優生保護法にかたちを変え、96年まで障害者に不妊手術を強い続けました。戦後78年となった今も、その痕跡は消えていません。
いま91歳になった小林さん…
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- 【解説】
旧優生保護法がなくなった今でも、(自分が誰かと比べて)優れているか劣っているかという感覚や普通でないものを排除する空気としての優生思想は私たちの間に存在している。優良を求める自分の内なる優生思想から逃れるのは簡単なことではないが、それでも私
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