只見線存続へ沿線紹介パンフ・車内演奏会…元気会議の企画次々

白石和之
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 「越後のミケランジェロ」と称された石川雲蝶の彫刻がある西福寺、国の重要文化財に指定されている庄屋屋敷の目黒邸……。JR只見線沿線の見どころを紹介するパンフレット「宝めぐりの旅」には、新潟県魚沼市内の「宝物」がずらりと並ぶ。「只見線の旅」では、景勝を背景に列車を撮影できるスポットが地図から一目でわかる。

 どちらも手がけたのは、同市須原で民宿を営む横山正樹さん(71)。只見線沿線の活性化を考える「だんだんど~も只見線沿線元気会議」の2代目会長だ。車内でコンサートを開く「歌声列車」の運行や駅舎を花で飾るなど、盛り上げるための仕掛けを次々と繰り出す。

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 スキーブームに沸いた1963年、地元の須原地区に須原スキー場が開業した。只見線は魚沼市内の小出―大白川が開通しており、その区間にある越後須原駅にはスキー客が押し寄せた。

 朝6時ごろ、一番列車が到着するとリュックを背負ったスキー客が続々と降り立った。冬の朝はまだ暗い。ちょうちんを持って先代の父と客を迎えに行った。「只見線とスキー場のおかげで、この地区は出稼ぎをせずに済んだ」。だがブームは長くは続かず、スキー客の減少に伴い地区に30軒あった民宿も姿を消し、今は5分の1ほどになった。

 大学を卒業して中学校の教員になった頃、只見線は会津若松駅(福島県会津若松市)まで全線開通していた。魚沼の小学生は只見線を使って会津若松に修学旅行に出かけた。福島県境をまたいで隣の只見町の高校に通学する生徒も。ただこれらも、時の経過とともに次第に少なくなった。

 そんな状況を受け、市内区間の開通70周年を翌年に控えた2011年、元気会議が発足したが、同じ年の3月に東日本大震災東京電力福島第一原発事故が発生。4カ月後には豪雨に見舞われ、只見線は鉄橋の流失などにより福島県内の只見(只見町)―会津川口(金山町)が不通となった。

 14年、教員を退職し民宿を継いでいた横山さんは、元気会議の会長に就く。被災した現場を訪ね、復旧を目指す福島県側の取り組みを知った。「沿線は一緒に頑張らないと」。復旧とあわせ、その後の存続についても考えながら、まずは走り出した。

 福島県側では17年に「上下分離方式」での復旧が決まった。駅や線路を県が保有し、JR東日本が列車の運行を担う方式で、鉄道施設・設備の維持管理にかかる費用を将来にわたって地元が負担するという重い決断だった。翻って魚沼には、只見線の利用を促すパンフレットすらなかった。やらなければいけないことが山積していた。

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 JR東によると、福島県に入って最初の只見駅までの区間は、1キロあたりの一日の平均利用者数(輸送密度)が1987年度の369人から2019年度は101人と7割以上減った。「全線再開が実現してほっとしている。でも、これは完成ではなく、存続に向けたスタートです」。再開の先を見据え、横山さんは気を引き締める。(白石和之)

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