ガダルカナルの戦い80年、残した教訓 アメリカ軍から見た真実とは

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聞き手・牧野愛博
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 日米両軍が激突した南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島の戦いから、今月で80年を迎えました。半年間で約2万2千人の戦死者・餓死者を出しました。その背景や教訓とは何でしょうか。陸上自衛隊東部方面総監を務めた磯部晃一元陸将は、米海兵隊指揮幕僚大学に留学した経験から「米軍がこの戦いをどう見ていたのかを知ることも重要です」と語ります。

なぜ、一木支隊の悲劇は起きたのか

 ――80年前の8月、米軍がガダルカナル島に建設した日本軍の飛行場を占領しました。一木清直大佐が率いる「一木支隊」の先遣隊900人が、飛行場奪回を目指して島に上陸しますが、8月21日までにほぼ全滅しました。

 痛ましい戦いでした。一方的に敗北したのは、いくつかの要因があります。まず、大本営陸海軍部で合意したガ島攻略作戦が急きょ構想されたため、その内容が極めてずさんだったことです。一つは上陸した米海兵隊の規模に関する見積もりが非常に甘かった点です。大本営は当時、1万人以上だった米軍の規模を約2千人と判断しました。現地の一木支隊も、敵情不明の中で偵察部隊を送り込みましたが全滅してしまい、敵情が分からないまま米軍陣地に接近し、米軍の仕掛けてあった包囲網にはまっていきました。

 次に、通信は「指揮の命脈」であるはずなのに、千キロも離れた上級司令部第17軍との連絡手段は潜水艦の中継による無線のみでした。その通信手段も潜水艦が離脱したことにより途絶えてしまうのです。一木支隊は孤立無援、上級司令部と意思疎通を欠いたまま敵陣に迫っていきました。一木連隊長は、当初にもらった命令、「戦機を重視して」との大本営の考えを踏まえて突入していったと考えられます。

 一木支隊は元々、海軍のミッドウェー攻略作戦に参加し、ミッドウェー島の占領・守備が目的でした。ガダルカナルの戦いが始まって、急きょ転戦したために、現地の地形研究も不十分でした。少なくとも、海軍の飛行場設営隊の生き残りと合流し、連携して現地の地形や米軍の見積もりを把握したうえで、判断すべきだったかもしれません。

米軍が明かしたガダルカナル戦の真実

 ――日本軍はその後、増援部隊を何度も送りこみましたが、43年2月に島から撤退しました。

 日本では悲惨な戦いに目が向きがちですが、米軍も厳しい戦いを強いられていました。米海兵隊と日本軍が、お互いに物資の補給競争を続けた末、米軍が相対的な力で勝り、日本が撤退したという構図です。

 私は1995年、留学した米…

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