国家が断ち切った20日間の新婚生活 満州が生んだ悲劇、語った人々

有料記事

編集委員・永井靖二
[PR]

「謀略の果てに」 下

 1945年8月8日、ソ連は日本に宣戦布告した。満州国の大部分を放棄して退却した関東軍の幹部や、侵攻するソ連軍の後方を攪乱(かくらん)するため捨て身のゲリラ戦を挑んだ将校らの足元で、なにが起きていたのか。

連載第2章「謀略の果てに」では、ソ連の侵攻を受けた満州国の最期の姿を、関東軍の元将校らのインタビュー音源からたどってきました。一方で、軍が退却した後、置き去りにされた住民や、兵士の帰国を待つ家族らはどんな状況に置かれたのでしょう。最終回では、こうした人たちの証言を紹介します

 ソ連の宣戦布告を受け、関東軍は一部の守備隊とゲリラ戦部隊を残し、事前の作戦通り、主力部隊が朝鮮との国境付近へ退いた。後には、何も知らされていなかった民間邦人が取り残された。

 翌9日未明から満州へ侵攻したソ連軍は、兵力約170万。満州各地に居留する民間邦人や開拓団員が、前面に立たされた。

「戦車だ、逃げろ」

 14日には、西部の国境に近い葛根廟(かっこんびょう)付近で、避難民が戦車部隊に虐殺される「葛根廟事件」が起きた。ソ連軍による民間人の殺害事件で最大規模の一つとされ、犠牲者は1千人以上と言われる。

 東京都練馬区の大島満吉さん(86)は、数少ない生存者の一人だ。当時9歳。戦後、事件の関係者を訪ね歩き、証言集をまとめた。朝日新聞記者の取材に、自身の記憶も交えてその状況を振り返った。

 証言集「葛根廟事件の証言」(2014年、興安街命日会編)によると、女性や子どもが大部分だった避難民約1300人の列に14日昼前、戦車十数台を含むソ連軍部隊が追いついた。

 避難者の列は長く延び、大島さんらは列の後続を待つため休憩中だった。2歳の妹を背負った母が水筒を取り出しているとき、「戦車だ、逃げろ」と声が上がって人々が走り出した様子を、大島さんは鮮明に覚えている。エンジン音が近づき、丘の稜線(りょうせん)から戦車が現れ、こちらに向けて機関銃の掃射を始めた。

 戦車がうなりを上げてジグザグ走行し、立ちすくむ人、逃げ惑う人をひきつぶした。無限軌道の音、エンジンのきしみ、逃げ惑う人々の悲鳴……。機関銃の猛烈な掃射音とともに、人間の体が跳ね上がるのが見えた。

 大島さんは母と一緒に近くの溝に身を潜めた。

 一度、ソ連兵と視線があった…

この記事は有料記事です。残り2431文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

この記事を書いた人
永井靖二
大阪社会部|災害担当
専門・関心分野
近現代史、原発、調査報道