ソ連が恐れたスメルトニク 捨てられたゲリラ隊、生還した隊長の願い

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編集委員・永井靖二
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「謀略の果てに」 中

 終戦間際の1945年8月、中国東北部満州国へ、ソ連軍の侵攻が始まった。現地に駐屯していた日本の関東軍は、持久戦をはかるため、主力が首都の新京(現・長春)を捨てて後方へ下がった。国境地帯に残された部隊は、玉砕を覚悟した。

 いくつかの部隊はゲリラ攻撃を繰り返し、ソ連軍から「スメルトニク」(決死隊)と恐れられた。だが、その戦いにもおのずと限界があった。

 日本軍の研究で知られるアメリカの軍事史家、アルビン・クックス博士が戦後の1960年代初め、元関東軍の将校ら36人から聞き取り調査をした。その証言録音が南カリフォルニア大学東アジア図書館に残されている。そこには、ゲリラ部隊の隊長をはじめ、隊の編成や訓練にあたった複数の将校の証言も含まれていた。

朝日新聞は、南カリフォルニア大学東アジア図書館の協力で、元将校らへのインタビュー音源を分析し、その内容をプレミアムA「砂上の国家 満州のスパイ戦」として特集しています。連載第2章「謀略の果てに」では、ソ連の侵攻を受けた満州国の最期を、将校たちの証言から振り返ります。

 太平洋戦争で日本の敗色が強まるなか、関東軍は戦力を相次ぎ南方の戦線へ引き抜かれ、いわば「かかし」のような状態だったとされる。ソ連軍が侵攻してきた場合に備え、苦し紛れの策としてゲリラ部隊を編成し、部隊の規模に応じ、機動旅団、機動連隊、遊撃隊、挺進(ていしん)大隊と名付けた。

 クックス博士に対する証言録音によれば、兵や士官を集めてゲリラ戦の訓練が本格化したのは、45年5月ごろからだった。

 機動第2連隊で訓練を担当していた内山二三夫は、対ソ戦に備えて東部国境の街、東寧の近くに布陣していた。だが、部隊を離れて管内視察中にソ連軍の侵攻が始まり、合流できた約60人とともにゲリラ戦に突入した。

 昼間は森に潜み、深夜に幕舎や武器庫を襲った。

 50人ほどのソ連兵が寝てい…

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