初の女性天皇、推古天皇は「中継ぎ」だった? バイアス外し見えた姿

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聞き手 編集委員・塩倉裕
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 古代の女帝であり、初の女性天皇として知られる推古天皇(在位592年12月~628年3月)は、長らく「中継ぎ」の天皇とみなされてきました。しかしこの20年ほどの間に歴史学の世界では、そうした見方を塗り替える研究作業が進んでいるとも言われます。日本古代史と女性史に詳しい歴史学者の義江明子さんに聞きました。

 1948年生まれ。帝京大学名誉教授(日本古代史・女性史)。著書に「女帝の古代王権史」「推古天皇」など。

 ――推古天皇を「中継ぎ」とみなす説は、いつどのように生み出されたのですか。

 「中継ぎ説は明治期に誕生し、1960年代に学説として確立されました」

 「明治政府大日本帝国憲法皇室典範によって、『男系男子』が皇位を継承するという新しい制度を創設しました。しかし、古代には8代6人の女性天皇が実在し、直前の江戸時代にも2人いたことは、知識層ではよく知られた事実でした。新しい法制度と女性天皇の存在を矛盾なく説明しようとして持ち出したのが、『確かに女性天皇も存在したが、あくまで男性から男性への継承が難しい際の緊急避難的なつなぎ役だった』とする中継ぎ説です」

明治期に持ち出された、女性天皇の「中継ぎ」説

 ――学説としてそれが確立されたのは、戦後になってからだったのですね。

 「ええ。戦前の日本は神聖不可侵とされる天皇が統治した国家で、学問の自由もありませんでした。過去の天皇や皇位継承の実態について歴史学者が実証的に研究できる状況では、そもそもなかったのです。実際、古事記日本書紀などの史料を批判的に読み込みながら天皇の歴史を解明しようとした津田左右吉は、著書が発禁処分になり出版法違反に問われてもいます」

 「天皇の歴史について自由に研究できるようになったのは1945年の敗戦以降のことです。学問的な検討がようやく積み重ねられていき、学説としての中継ぎ説の確立につながったのが60年代でした。男性から男性への皇位継承に困難があるときに、女性が『仮の即位』をして次代へ安定的につなぐ役割を果たした、とする説でした」

 ――戦前の中継ぎ説を踏襲しているように見えます。

 「ええ。日本書紀などを実証的に読み込む作業自体は行われたのですが、女性についての基本的な見方が戦前と変わることはなかったのです。戦前の中継ぎ説に比べて、統治をもり立てる点で女帝が果たした積極的な役割を一定程度認めたものだったとは言えますが、あくまで男性を支える『内助の功』的な位置づけでした」

 「女帝は仮の天皇であって実際に統治をしたのは男性だった、という解釈も添えられていました。女性天皇は『お飾り』に過ぎないという解釈です。推古天皇の場合、実際の政治を担っていたのは叔父である蘇我馬子と甥(おい)である聖徳太子(厩戸王(うまやどのみこ))だったとされてきました。今でも常識と思われている話ではないでしょうか」

 ――女性天皇を中継ぎやお飾りとみなす見方を塗り替えていく研究は、いつからどのように進んできたのですか。

なぜ「中継ぎ」や「お飾り」という女性天皇像ができてしまったのか。記事の後半では、その背景にあった「二重のジェンダーバイアス」や、バイアスや後世の脚色をはぎとった後に見えてきた推古天皇の実像について、義江さんがひもといていきます。

 「歴史学界で見直しの機運が…

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