第5回救済した相手は「オオカミ」だった ボーイング襲った「文化大革命」

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 アメリカ産業界を代表する企業として、ボーイングはかつて卓越した技術力を誇っていた。それが「金融マシン」と評されるほどに変質するまで、いったい何が起きたのか。組織の内情を肌で知る人たちを、私は全米に訪ね歩いた。転機となったのは「シアトルの文化大革命」とも呼ばれるM&A(買収・合併)だった。

 米西部ユタ州の大学で物理学を教えていたスタン・ソーシャーは1980年、西海岸シアトル近郊に移り住み、ボーイングのエンジニアに転じた。まず航空機の騒音をコントロールする130人ほどのチームに加わった。

 「そこで目にしたのは、『課題解決文化』とも言うべき気風にあふれた組織でした」

根っからのエンジニアリング企業

 たとえば毎週月曜日のミーティング。みながそれぞれ90秒の時間を与えられ、抱えている課題を説明する。どの部署から必要な助けを得られるか、親身なアドバイスが行き交った。

 新型機の開発には、2万もの課題を乗り越える必要があるといわれる。部門を越えてひとつずつ解決していく仕組みが当時のボーイングには根付いていた、とソーシャーは振り返る。

 「たとえ自分の利益にならなくても、最終的な商品の品質を高めるために協力を惜しまない文化があった。それに比べれば、以前務めていた大学は極めて賢い人ばかりだったが、ボーイングほどは組織として機能していなかった」

 ソーシャーによれば、そうした時代に産み落とされた最後の飛行機が、「トリプルセブン」の愛称で知られる大型機「777」(95年運航開始)だったという。

 根っからのエンジニアリング企業だったボーイングはしかし、社内エンジニア出身のフィリップ・コンディットが社長として率いるようになった90年代前半から、その性格を変えていく。自社の株価に連動したボーナスの導入などを進め、従業員が株価や最終利益に一喜一憂するようになった。

 当時、開発部門にいたという別の元ボーイング社員は、取材にこう話した。

 「かつてなら職場の最優先の目標は、高品質な飛行機を予定通りのスケジュールで納入し、スムーズな運航を実現させることだった。そのために必要な予算はいくらでも使えた。ところが、利益と株価の優先度が明らかに高まっていくなかで、航空機の開発にかけられる予算や人、時間がじわりと、しかし確実に削られていった」

「羊によるオオカミの買収」

 決定的な転機は、97年に訪…

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