【ノーカット動画】内村航平選手が引退会見「最後に意地見せられた」

【ノーカット動画】内村航平が引退会見
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 体操男子でオリンピック(五輪)4大会連続出場を果たし、個人総合2連覇を含む七つのメダルを獲得するなど「体操ニッポン」の一時代を築いた内村航平選手(33)=ジョイカル=の現役引退の記者会見が、14日午前10時から東京都内で始まりました。

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 内村選手は長崎県諫早市出身。元体操選手の両親が営む体操クラブで3歳から競技を始めた。五輪は2008年北京大会から21年の東京大会まで続けて出場。個人総合では12年ロンドン大会、16年リオデジャネイロ大会で2連覇し、リオ大会では団体総合との2冠を達成した。

 世界選手権の個人総合でも、09年大会を20歳で制したのを皮切りに前人未到の6連覇を成し遂げた。世界選手権での総獲得メダルは金10個、銀6個、銅5個の計21個を数える。

 難度の高い演技を美しくこなし、世界の体操関係者から尊敬を込めて「キング」と呼ばれた。16年には競技普及への思いから日本体操界初となるプロ転向も果たした。

 近年はけがなどに苦しみ、東京五輪は鉄棒一本に絞って出場したが、予選落ち。現役最後の大会となった昨年10月の世界選手権では種目別鉄棒で6位だった。

会見での主な発言

 体操男子でオリンピック(五輪)4大会連続出場を果たし、個人総合2連覇を含む七つのメダルを獲得するなど「体操ニッポン」の一時代を築いた内村航平選手(33)=ジョイカル=が14日午前、東京都内で現役引退の記者会見を開いた。

 会見の主な発言は以下のとおり。

 特別な感情はそこまでなくて、ただただ引退するんだなみたいな感じで。実感は今のところないです。

 思い返すと3歳で好きな体操を始めて、体操歴も30年になって、30年中16年間、ナショナル強化選手として活動させていただきました。人生の半分以上を日の丸を背負ってやってこられたのは誇りでありますし、今後何をやっていくにしても自信を持っていろんなことを発言していけるんじゃないかと思います。

 引退をいつ決めたかというと、東京五輪が終わって、次の世界選手権(10月)に向かう道中、練習をしていくなかで、ちょっとしんどすぎたといいますか、このままだと先が見えないと感じて、世界選手権の前には最後かなという感じで世界選手権に挑みました。

 最後の最後、決勝で着地を止めたいという気持ちで演技をして、それをやりきれたので、結果は伴いませんでしたけど、下の世代の選手たちにもこれが体操だ、本物の着地だと、最後に僕らしいところを見せられたと思うので、そこはよかったかなと思っています。

 最初の5、6分しゃべってくださいと言われたけど、質問されて答える方が得意なので(笑)

 今日引退会見をやってますけど、本来の引退は3月12日なんです。というのも、3月12日に最後の舞台を東京体育館でやりたいと思っていて、そこで最後、この全身痛い体にムチをうって6種目やろうかなと思っています。どういう形でやるかは今後しっかり打ち合わせして、選手もちょっと呼びたいと思っているので、自分の最後をしっかり見ていただいて最後にしようかなと思っています。6種目をやるということで、東京五輪の代表になるより苦しいことをやるのかと憂鬱(ゆううつ)になってますけど、そこまではしっかりやりきりたいと思っています。

 このぐらいで大丈夫ですかね(笑)あとは質問に答えていきますので、よろしくお願いします。

 ――現在の心境

 引退と決断したけど、そこまでも重くもスッキリもとらえていない。3月までやるので、そういう心境なのかもしれないですけど、10月の世界選手権に向かうまでは、「これが最後なのかな」という気持ちはありました。本当に実際、よくわかってないというのが一番の心境です。

 ――体操人生を振り返って

 実績だけ見ると結果はかなり残せたかなと思うけど、まだまだやれた、あの時ああしておけばよかったと思うことがあるので、競技人生に満足できたかというとそうではない。まだまだやれただろ、というのがすごくあります。

 ――感謝を伝えたい方

 うーん、いろんな人がいますけど、その中でというと、コーチの佐藤(寛朗)ですかね。5年間マンツーマンでやってきて、かなり迷惑もかけたし、本当は最後、五輪で金メダルをかけてあげたい気持ちはあった。それができなくて残念な気持ちもあるけど、コーチと選手ではなく、ふたりで研究する立場でやってこられたし、この場で少しの時間で語り尽くせないぐらい濃い時間を過ごしてきた。今ここに立っているのも彼のおかげかなと思っています。

 ――最もこだわってきたもの

 着地です。これまで散々、個人総合で優勝してきた場面でも、こだわってきた。五輪、世界選手権のチャンピオンとして着地を止めるというのは当たり前にできた。最後の世界選手権でも、どういう演技でもいいので着地は絶対止めてやろうという気持ちでやれたので、最後に意地を見せられた。他にも美しくやったり、他の選手と同じ技でも違う動きに見せたりというのもあるけど、やっぱり着地を止めているという印象を皆さんもお持ちだと思うし、僕自身もそこを追い求めてやってきた。

 ――最もアツくなった瞬間

 二つあります。2011年、東京でやった世界選手権の個人総合決勝とリオデジャネイロ五輪の個人総合の鉄棒ですね。これは今でも感覚とか視界が記憶に残っている。

 2011年の世界選手権は今まで感じたことがないぐらいのゾーンに入っていて、朝起きる2、3分前、もうすぐ目覚めるなというときに「今日は何をやってもうまくいく」と感じて、試合が終わるまですべてうまくいった。

 リオ五輪の鉄棒に関しては、あれだけの点差を逆転できたのもそうですけど、五輪の体操の歴史にも残せる激闘。オレグ(・ベルニャエフ)選手(ウクライナ)と五輪の会場を支配したのは今でも記憶に残っています。

 ――引退試合をやろうと思った理由

 もともとは2年前の3月に自分の名前を冠した試合をやろうとして、コロナでできなかった。またやりたいと思っている中で、体操選手が引退するときに最後の舞台をやった選手はいないので、そういう場を自分で作ってやる。これから引退していく選手たちのスタンダート、目標にしてもらいたいと思った。僕自身はオールラウンダーとしてやってきたので、最後の最後、6種目やって終わりたい気持ちもあった。

 ――引退を決意したあとに6種目やるのはつらいと思うが

 6種目で(五輪)代表を目指せないから鉄棒に絞ったけど、僕はどんな状態でも6種目やりたい気持ちはあった。東京五輪を目指すまでの過程を皆さんが見てないだけであって、6種目はやりたいと思ったし、練習もやっていた。やるということは普通です。きついこともあるけど、体操は6種目やってこそ、という気持ちはあるし、後輩たちにも受け継いでってほしいし、心底好きだからというのもある。最後、鉄棒だけで終わるのは自分じゃない気がする。6種目やってこそ。

 ――今後は

 これを絶対やっていきたいという一つのことはなくて、日本代表の選手たち、後輩たちに経験を伝えていったり、小さい子どもたちに体操って楽しいんだよって普及活動をしたり、体操に関わる全てのことをやっていきたい。体を動かすことはストップしないと思うので、やれるときに体を動かして、自分が動いて見せるというのもあると思うので、体操に関するすべてのことにチャレンジしたい。

 ――体操に声をかけるなら

 そうですね……。「ありがとう」とかそんな軽い言葉じゃ感謝を伝えられないというか。僕は体操しか知らないので、これだけ体操というもので内村航平がつくられて、人間性もそうだし、競技も結果としてすごく残せたし、感謝している気持ちを返していかなきゃいけない気持ちがすごく強い。体操を世界で一番知っている状態にしたいので、ずっと勉強しつづけたいです。極めるとかいう次元よりもっと上のところまでいきたい。

 ――引退の理由は、体の痛みなのか心の部分なのか

 体の痛みというよりは、世界一の練習を積めなくなったということへの諦めじゃないですけど、もうきついな、世界一の練習をやるのは難しいなと思ったので、そうなると、もう引退かなと思った。体が痛いことは世界一の練習ができないことにつながるけど、それよりもモチベーション、メンタル的な部分で、世界一の練習という状態に持っていくことが難しくなったことが大きいですね。

 あと、練習していくなかで、体操の演技は10個の技をつなげて最後の着地をやるんですけど、以前だと何回も何回も気持ちを保てたし、どんなにしんどい日でもやりきることができたんですけど、世界選手権に向かうまでは、五輪の予選落ちもあって、気持ちを上げていくのが難しかった。

 ――五輪をひとことでいうと?

 僕にとっての五輪とは……うーん、やっぱり自分を証明できる場所だったかなと思います。五輪イヤー以外に世界選手権が毎年あって、その中で世界チャンピオンになり続けたけど、本当のチャンピオンなのかと疑い続けて、それを五輪で証明するというのを2回もできたので。

 ――2016年リオ五輪からの5年

 今まで練習が思うようにいかないことがなかったのが、急にうまくいかなくなって、それを気持ちでカバーできなくなり、練習でどうにか痛めない体を作り上げていくところからやったり、練習を工夫したり、プロになって、普及のことなど体操の価値を上げたいとか、いろんなことを考えてやったりした中で、体操を突き詰めていくという意味では一番濃い5年間だったかなと思います。

 リオ五輪までの自分より、体操に関する知識が増えて、世界中のどの選手、コーチより一番知っているという自負がある。それくらい研究して知ることができたし、終わりがないことも知れた。勉強しつづけることで知識の幅も広がっていくし、引退することでそれをいろんな人に伝えていけるので、通らなければいけない道だったのかなと思います。良いところばかり知りすぎていたので、挫折とか落ちたところからはい上がる力を知れたのも今後、人に伝えていく立場として知らなければいけなかったと思う。栄光も挫折も経験できたのは今後体操でトップを目指す、五輪で金メダルを目指す人たちに伝える立場からすると、貴重な経験をさせていただいた思いが強い。

 ――「ウチムラ」という技がないまま引退。未発表の新技はあるのか

 何個かあります。やっていたら確実に「ウチムラ」という名前がついていた技はあるんですけど、個人総合でトップを維持するために、その技をやることをやめました。必要なかったのでやらなかったんですけど、2013年の世界選手権で白井健三が跳馬でユルチェンコ3回ひねりを成功させて「シライ」の名がついたんですけど、2010年の全日本種目別選手権の決勝で僕が最初にやっているので、健三にとられた技ですね(笑)。

 実際、あれは本当に難しい技で、個人総合でやっていこうかなと思ったけど、2010年に1回やっただけで、個人総合の中で安定してやるのは難しいと判断した。その3年後に軽々と跳ぶ坊主が現れたので、「こいつはどうなっているんだ」という気持ちで見ていました。

 自身の名前がついた技がない状態で引退を迎えましたけど、それもありかなと。それだけ個人総合を誇りに思ってやってきたからこそ、という証明にもなるので、それはそれでいいかなと思います。技名を一つ残すよりもすごいことをやってきたと思うので、そこに誇りを持てている。

 ――内村選手といえば、ブラックサンダー。この会見に臨むにあたって食べた勝負メシがあれば

 ブラックサンダーは勝負メシじゃないですよ、お菓子ですから(笑)今日の会見を僕は勝負じゃないし、そもそも、僕は1食しか食べないので、朝は食べてないです。水ですね。勝負水です。勝負水で今日、やらせていただいてます。

 ――2011年の世界選手権でゾーンに入れた理由

 人生で一番「心技体」がそろっていた時期なのかなと思います。練習量も質もものすごく高かったし、メンタルもあのときが一番強かったかなと思うし、痛いところもなかった。世界で一番練習をしていたからだと思います。自分の体操、演技に自信を持っていたので、失敗する気がしないという次元ではなく、この場をどう楽しもうかと。強さとはかけ離れた、自分ひとりだけが楽しんでいる状況だった。

 翌年のロンドン五輪でゾーンを再現したいと思ってましたけど、ゾーンは再現できるものじゃないし、自分から狙ってやれるものではないんだなと感じた。あれを一回経験できただけでも、人間をちょっと超えられたんじゃないかなと僕は思っています。ゾーンの話をすると3日ぐらい話し続けてしまうので、ここでやめておきます(笑)

 ――「そもそも引退する必要があるのか」と言っていたこともあった

 現役引退の定義が何か自分なりに考えたときに、試合に出ない、競技者じゃなくなるというところなのかなと思った。競技者じゃなくなったのに現役引退を表明しないでいるのも世の中的にもそうですし、自分としても、はっきりしないなあ、みたいな感じになるかなと思ったので、競技者としては一回身を引きますと発表したほうがいいんじゃないかと。競技者としてではなく演技者としてやっていくのもいいんじゃないかと思って。今後いろんなことをやっていくと思うので、ずっと体を動かし続けるのか、こういうことが面白いからこっちに行ってみようと思うかも知れないので、とりあえず体が動くまでは動かし続けたい。

 ――これを残せてよかったなと思うこと

 残したものってなんなんでしょうね。結果以外に何かあるのかな。結果を残していくことで、その先にある体操を超えた他の競技の選手にも、リスペクトされるような存在になれたというのは、非常にうれしかったかなと。でも、それは残したものじゃないんで、違うな。残したもの……うーん。何を残したんですか?逆に、ははは(笑)。新しくプロというものを作って、その道を作れたこともそうですね。体操に可能性はまだまだあることを示せた。でも、何を残したかというと分からないですね。

 ――日本の体操界への提言

 体操だけうまくてもダメだよということは伝えたい。若い頃は競技だけ強ければいいと思ってやってきたんですけど、結果を残していく中で人間性が伴ってないと、誰からも尊敬されないし、発言に重みがないというか。僕はちっちゃいときから父親から体操選手である前に人としてちゃんとしてないとダメだと言われ続け、その意味がようやく分かった。大谷翔平君も羽生結弦君も人間としての考え方が素晴らしいから、国民の皆さんから支持されている。

 体操に関しては「美しさ」「着地」「6種目やってこそ」とか、自分が示してきたことを受け継いでほしいけど、結果を残した身としては人間性に重きを置いてやってほしいということを伝えたいです。

 ――これまで習得した技のなかで、思い入れのある技

 僕がそこまで技が習得できたのも、技を覚える楽しさを知っているからだと思うんです。一番うれしかったのは(鉄棒の)「けあがり」という技。小学校1年生か入る前だと思うんですけど、あの時の記憶は今でも覚えていて、僕、クラブでも技を覚えるのが遅かったので、けあがりができたときの感動は忘れられない。あれが500技ぐらい覚えられた原動力になっているのかなと思っているので、自分の礎になっているかなと思っています。

 印象に残っている技は(跳馬の)「リ・シャオペン」と(鉄棒の)「ブレトシュナイダー」。「リ・シャオペン」は一番難しかったし、一番動画を見る回数も多かったし、考えた。できても、これで合ってるのかなと思いながらやってきたし、その後も改良を重ねましたけど、いまだに難しいと思いますね。

 「ブレトシュナイダー」もまさに同じで、試行錯誤を重ね、あの領域までいけた。試合で一度も落ちていない。一つの技に対して、そこまで追い求められるからこそ、質も成功率も高いんだろうなと思っている。そういうところは下の世代の選手たちにも追い求めていってほしいというか。答えはないから追い求め続けることが大事なんだよというのを言いたい。

 今後も技は増やしていく予定なので、随時更新していこうかなと思います(笑)。

 ――世界選手権の前に引退を決断するにあたって葛藤はあったのか

 もし続けるとしても、あと1年とかそういう感じではなく、次の五輪も目指したいという中で考えていた。そうなるとあと3年。そこまではもう無理だなと思ったので、結構すんなりいきました。五輪が終わったばかりのときは半々だっだけど、世界選手権までの2カ月もしんどいのにあと3年は100%無理だなと。もういいや、もう無理だと思いました。

 ――子どもたちにメッセージ

 なんでもいいと思うんですけど、自分の好きなことをひとつ見つけられると、それが大人になっても続いていくようなことにつながったり、好きなことをやり続けることで勉強や習い事に変換できて、こうやって頑張れば良いんだ、やり続ければいいんだと学べるので、やっぱり好きだと思うことを見つけることが一番大事なのかなと。

 体操をやる子どもたちが増えてくれたら僕はうれしいんですけど、いまだに僕は体操やると楽しいよ、ぐらいしか言えないので、こうなって、こうなるからやった方が良いよ、と自信を持ってすすめられるように研究して、データをとって、子どもたちの前で言えるようになりたいなと思います。

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