場所を明かせぬ秘密基地は…戦争遺跡 東京に残る掩体壕
「場所は明かさないこと」。その条件で、記者が入ることを許されたそこは、町工場の中に隠された「秘密基地」――。そんな第一印象だった。
太平洋戦争中、ここに陸軍調布飛行場の戦闘機を格納して上空の敵機の目をあざむき、米軍の空襲から守った「掩体壕(えんたいごう)」だ。今、付近に残るのは4基。うち3基は東京都府中市の文化財になっていたり、都立公園内で保存されていたりする。唯一の個人所有となった壕に、工場の社長(52)が条件付きで入れてくれた。
「初めて見る方は、なんだこりゃ?って。ここから戦闘機が出て行ったと説明してもぴんとこない。『エンタイゴウ』って何?って感じで」
スレート平屋建ての工場に入ると、社長が工具や資材に囲まれたアーチ状の穴を示した。掩体壕への入り口だ。中は半地下で、逆さにした巨大なおわんのような空間になっていた。戦闘機1機がすれすれで入る大きさだという。
壕の内側のコンクリートの表面を白く塗り、配線がむき出しの蛍光灯をつけたのは、先代である社長の父という。
「50年以上前、おやじがここの中で開業して。高度成長期の好景気で手狭になって、地上に仕事場を広げて掩体壕の上に建物もたてちゃった。建物が乗っかってるから、壕を壊そうにも壊せない」
そう言って笑う社長にとって、掩体壕のある風景は日常だった。幼いころには近所のあちこちに残っていて、倉庫の代わりなどに使われていたという。
「中に隠れて遊んだり、上から飛び降りたり。自転車で駆け下りてこけたこともあったなあ」
建造時のことを聞かせてくれたのは、大正生まれの祖母だった。
土山をつくって、その上に鉄筋を並べ、コンクリートを流す。固まったら土を抜く。「コンクリは手で練っていた」との逸話には、いまの感覚ではあまりに非効率な作業で、気が遠くなる思いがしたという。
戦後、朝鮮戦争が起きて鉄の需要が高まり、壕の鉄筋を金に換えようと壊されたものもあったという。その後は宅地化が進む中で取り壊され、いつしか希少な存在になっていた。
地域で保存活動をする人から「状態がいいから保存したい」と持ちかけられたこともあるが、稼働している工場でもあり、「仕事にならなくなるから」と、断ってきた。
この工場は、自分の代で閉めるつもりだ。バブル崩壊後、多くの町工場が廃業した。ここも、社長1人だけになった。「ひとりでやる分には、あと10年、いや15年くらいできるかなあ」とつぶやいた。
掩体壕が象徴するものは何な…
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