劇作家の山崎正和さん死去、86歳 柔らかい個人主義

 「世阿弥(ぜあみ)」などの戯曲や「柔らかい個人主義の誕生」をはじめとする鋭い文明評論で知られ、サントリー文化財団など芸術文化の振興にも力を尽くした劇作家の山崎正和(やまざき・まさかず)さんが19日、悪性中皮腫のため死去した。86歳だった。葬儀は近親者のみで営んだ。

 1934年に京都市で生まれ、5~14歳を主に戦時中の旧満州(現中国東北部)で過ごした。京都大文学部に入学して美学を専攻し、同大学院在学中から戯曲を発表した。室町幕府3代将軍の足利義満と、能楽を大成した世阿弥とを光と影に見立て、民衆と芸術家の対立を描いた「世阿弥」で1963年の岸田戯曲賞を受賞した。「実朝出帆(さねともしゅっぱん)」「オイディプス昇天」など歴史を大きな視野からとらえた劇作で知られた。

 関西大や大阪大の教授、山口県の東亜大の学長などを歴任。文芸評論や社会評論、近代日本を問う文明論などを幅広く展開した。近代的自我のあり方を論じた「鷗外 闘う家長」(72年)、室町時代に日本文化の完成を見る「室町記」(74年)などを出した。

 代表作「柔らかい個人主義の誕生」(84年)の中で、知識集約型産業が中心となる「脱産業化社会」では、人々はモノではなく、時間を消費し、他人に自らを表現する社交を楽しむようになると予言。吉野作造賞を受賞した。また、グローバル化の進展で国家などの組織が衰退する中で、個人に心の居場所を与えるものとして社交による人間関係を重視した「社交する人間」(03年)などで社会と人間のあり方を読み解いた。

 サントリー文化財団の設立とサントリー学芸賞・地域文化賞の創設(いずれも79年)にも力を入れた。財団の理事を長年務め、若手研究者や地域文化の担い手の育成に力を注ぎ、企業の文化支援が国内に定着するのに大きな役割を果たした。

 兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)の創設にも尽力。先行して91年に設立された兵庫現代芸術劇場の芸術監督に就き、秀吉と利休の葛藤を描いた「獅子を飼う」などを上演した。95年の阪神・淡路大震災では、西宮市の自宅で自身も被災したが、「おにぎりも大事だが、だからと言って文化を忘れてはならない」と主張。自粛の雰囲気が広がる中、上演予定だった翻訳劇「GHETTO/ゲットー」の資金集めに奔走し、読売演劇大賞などを受賞した。

 現実主義的な保守の論客としても知られた。政府の審議会や懇談会の委員などを歴任し、現実政治にも関わりを持った。2007年からの2年間は文部科学相の諮問機関、中央教育審議会の会長を務めた。06年に文化功労者、18年に文化勲章を受章した。1984~85年に本紙の「文芸時評」、96~98年には「論壇時評」の筆者を務めた。

 著作中の記述は、入試問題や教科書に数多く取り上げられている。

山崎正和さん語録

 著書「柔らかい個人主義の誕生」について、「消費経済を肯定する本だと読まれましたが、実はこれからの消費は、モノではなく時間を消費する『時間消費』だと言ったのです。当時から私は、環境や資源の問題が念頭にありましたから、どうしたらこの豊かさを守りながら、モノを使わないでやっていけるかを考えていた」(1999年、朝日新聞のインタビューで)

 戯曲「世阿弥」をめぐり「世阿弥を生んだ室町時代は、身分と無関係に、個人の決断や趣味がたたえられる時代でした。ルネサンスに似た近代的世界で、私は救われた思いでそこに飛びついた」(99年、朝日新聞のインタビューで)

 「登山家の言葉を借りたら、そこに芸術があるから登っています。(中略)まだこの世にないもの、誰も知らないものを創造するのが芸術家の仕事で、そこに楽しさがあります」(2006年、兵庫県立芸術文化センターの芸術顧問を退任後、朝日新聞のインタビューで)

 「文明の世界的統一という観点から見れば、現代は近代国民国家から地球市民社会への過渡期にあるといえるのであって、教育の内容も方法も、この変化に沿ってたえず微調整を繰り返さなければならない」(「文明としての教育」、07年、新潮社)

 「今の日本人は身の丈に合わない生活、過剰な生活をしている。全員で、生活水準を少し、たとえば1割ほど下げたらどうか(中略)これこそ本当の『保守主義』なのだが」(08年、朝日新聞のインタビューで)

 「大震災は言うまでもなく大変不幸なことです。ただ、日本人の国際性、文化主義、平和主義という意味においては、ある種の理想の姿を見せた」(12年、東日本大震災1年にあたり朝日新聞のインタビューで)

 「日本の文化、文明はかなり危機的な状況にある」「単に難しい内容の本が売れていないということでなく、幅広い読者層を持っていた作家の本も売れなくなってきている。資源が少なく、人口も減り始めた日本では、知的活動が社会の基盤にならざるをえない。このままでは活字を読む人と読まない人に社会が階層分化してしまう」(14年、大阪での講演で)

 「左翼の人たちにとっては、日本は憎むべき巨大な権力だったかもしれない。しかし私から見ると、波間に漂う笹(ささ)舟のようなもので、一つ間違えると本当にひっくり返るという状況に見えていました」「私は自分を『戦後民主主義の子』だったなと思っています」「国家を敬うのでもなく恐れるのでもなく、いじらしく、愛すべき存在だと見る感覚を持つことです」(「舞台をまわす、舞台がまわる」、17年、中央公論新社)

 「文化を大事にしないといけません。ひとつは大学です。戦後、大阪市から外に出て行くようにしたし、事実出て行ってしまいました。(中略)大阪市には学生街というものがない」「中小企業が持つ技術を大学と結びつければ、できることがいっぱいある」「いまの自治体は、東京へのコンプレックスだけで動いているように見えます。それが一番表れているのが、大阪を副首都にするという主張です。単に東京に負けないぞ、というひがみと意地だけの発想じゃないですか」(15年、大阪の「地盤沈下」の対策を問う朝日新聞のインタビューで)