中学最後の打席、死球が頭に 3年ぶりに公式戦の打席へ
埼玉県に近い東京都立高島高のグラウンド。7月上旬、3年の橋本昇汰(18)は一塁の守備位置についていた。内野からの送球を次々と受ける。声を出し、仲間を鼓舞する。チームの主力選手だ。
2年ほど前までは、球拾いもできなかった。
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2017年10月1日。
目覚めると、ぼんやりと病室の白い天井が見えた。枕元の医師や看護師から声をかけられた。記憶がなかった。起き上がろうとした瞬間、左半身が動かないことに気付いた。
軟式野球の有望選手で中学3年だった橋本はこの日、東京選抜の一員として新潟での試合に出ていた。「Kボール」という、軟式と硬式の中間のようなボールを使った大会だった。
「中学最後の打席だよ」。スタンドから母の恵(47)が声援を送った瞬間だった。左側頭部に死球を受け、意識を失った。
診断は脳振盪(しんとう)。1日安静にしていれば治ると言われた。だが、何日たっても左半身が動かなかった。握力はゼロ。検査を繰り返しても脳や神経に異常はなく、原因は分からなかった。新潟、そして転院した都内の病院での入院が続いた。
東北の甲子園常連校に野球留学する予定だった。幼い頃から夏の甲子園での優勝が夢だった。しかし今は、原因不明の半身不随。病室の布団の中で恐怖に震えた。
看護師が毎朝、「大丈夫?」と聞きに来る。大丈夫じゃねえよ――。叫びたい気持ちを抑え、「大丈夫です」と静かに答えた。同級生らの見舞いも断り続けた。誰とも会いたくなかった。
回復は突然だった。年明けのある朝。いつもと同じ医師の検診で、左手を動かそうとした時、プルプルと震えながら動いた。「体の左側の筋肉にエネルギーが注入されていくような感覚」だった。
数日後、地元の高校の入試は病院から車いすで向かった。左半身が少しずつ動くようになっていった。1週間後の合格発表は杖をついて見に行った。退院。やがて杖も必要なくなった。
元通りのプレーはできないかもしれない。ただ、野球のそばにいたいと思い、硬式野球部に入部した。
久しぶりのグラウンドで、コロコロ転がる球に足がすくんだ。教室で、同級生に「貸して」と頼んだ消しゴムを投げられると、全身が凍った。PTSD(心的外傷後ストレス障害)だった。
心のリハビリに取り組み、少しずつボールへの恐怖心を消していった。
1年が過ぎた。
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「代打、いくぞ」
昨年5月3日、母校のグラウンドでの練習試合で、監督から告げられた。あの事故から580日目の打席。突然の指名だった。
6―3の五回表、2死三塁。初球を振り抜いた。差し込まれたが、右前に落ち、適時打となった。バットの芯を外された硬球の衝撃が、両手に伝わった。「野球をやっている」。ベンチに戻り、泣いた。
今春、都大会での「背番号3」が与えられた。真っ先に母に伝えた。「おめでとう」。電話の向こうで、母は号泣していた。
その春季大会はコロナ禍で消えた。夏の選手権大会もなくなった。代わりに東京の独自大会が決まった。
開幕2日前の今月16日。学校の柔道場にチーム全員が集まった。背番号の発表。監督の島修司(52)から名前を呼ばれ、「3」と染められた布を再び受け取った。縦横二十数センチ。「ただの布かもしれない。でもすごく重い」
26日に東東京大会の1回戦に臨む。あの日以来、3年ぶりに公式戦の打席に入る。=敬称略
ヘルメット着用義務、42回選手権大会から
高校野球では、1960年の第42回選手権大会から打者のヘルメット着用が義務づけられた。数年後には走者も着用が義務化された。95年には走者の安全を考え、これまでの片耳タイプから両耳にカバーのついたヘルメットとなった。衝撃吸収性など安全性が保証された「SGマーク」の製品が使用されているが、事故の根絶には至っていない。2018年11月には、練習試合で頭部に死球を受けた2年生部員が翌日に死亡する事故が起きた…