外資系部長職を捨て選んだぜいたく 50歳からの自分試し

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志村亮
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 外資系製薬会社の部長として働いていたころに比べ、はるかに「ぜいたく」な思いで暮らしている男性が新潟県魚沼市にいる。

     ◇

 2016年9月の朝、外資系製薬会社ヤンセンファーマの部長職だった西村暁良さん(52)はJR総武線水道橋駅からオフィスへ歩く途中、ふと思った。

 〈辞めようかな〉

 自分でも驚いたが、腑(ふ)に落ちる感覚があった。その日のうちに上司に話した。年末には部下たちに伝え、17年3月末に退職した。

 仕事に不満があったわけではない。仲間にも恵まれていた。でも、もう製薬業界に戻るつもりはなかった。

部下の育成が苦手

 岐阜県高山市に生まれた。信州大農学部を出て、1988年に大洋薬品工業(現・武田テバファーマ)に就職。東京にあった新薬開発の部署に配属された。

 当時の新薬開発はまだ牧歌的で、若手でも基礎、臨床試験、国への承認申請といったプロセス全体に関われた。だが、厚生省(現厚生労働省)が90年に「医薬品の臨床試験の実施に関する基準」(GCP)を施行し、細かい品質管理を求めるようになると、分業が業界の主流になった。開発費もふくらむ。大洋薬品は新薬開発からの撤退を決めた。

 新薬開発に関わっていたかった。98年、新聞求人欄でみつけた外資系企業に転職した。新薬開発プロセスの一部を、製薬会社から受託する企業だった。臨床試験の手配などで病院を回った。

 自然とマネジャーになり、10人ほど部下を抱えた。だが、部下の育成は苦手だった。

 部下から人間関係の悩みを打ち明けられたことがある。きちんと聞いたつもりだったが、不満を示された。中立的な立場を保とうとする態度が気に障ったらしい。味方になってもらえると思っていたようだった。

 管理職はつまらないと、02年にヤンセンファーマに転職。給料は下がっても、現場を回ることを望んだ。

 それでも年を重ねると、管理職を避けられなくなる。またマネジャーになり、部下をもった。

 今度は気持ちに変化があった。若手を導き、成長をみる喜びがわかってきた。14年10月に研究開発本部で部長職に昇進する。

黙って満員電車 幸せなのか?

 そのころ、会社の指示で出勤前の1時間半、英会話学校に通い始めた。そこで講師になった南アフリカ出身の60代男性に会った。

 驚いたのは彼の「博識」だ。日本の歴史や文化にも詳しい。日本が第1次世界大戦になぜ巻き込まれたのかが話題になった。自分の国のことなのに、西村さんには知らないことばかりだった。

 会社の補助は半年で終わったが、もう半年、自費で延長した。

 あるとき、その男性に言われた。

 「毎朝、むすっと黙って満員電車に揺られて、お前たち日本人は幸せなのか?」

 いろいろと考えるようになった。

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 若い頃から給料に見合うだけ…

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