夏目漱石「吾輩は猫である」98

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 「寒月君博士論文はもう脱稿するのかね」と主人が聞くと迷亭もその後(あと)から「金田令嬢が御待ちかねだから早々呈出し玉え」という。寒月君は例の如く薄気味の悪い笑を洩(も)らして「罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが、何しろ問題が問題で、よほど労力の入(い)る研究を要するのですから」と本気の沙汰とも思われない事を本気の沙汰らしくいう。「そうさ問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。尤もあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭も寒月流な挨拶(あいさつ)をする。比較的に真面目なのは主人である。「君の論文の問題は何とかいったっけな」「蛙の眼球(めだま)の電動作用に対する紫外光線の影響というのです」「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の眼球は振(ふる)ってるよ。どうだろう苦沙弥君、論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知して置いては」主人は迷亭のいう事には取り合わないで「君そんな事が骨の折れる研究かね」と寒月君に聞く。「ええ、なかなか複雑な問題です、第一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡なものでありませんからね。それで色々実験もしなくちゃなりませんが先ず丸い硝子(ガラス)の球をこしらえてそれからやろうと思っています」「硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」「どうして――どうして」と寒月先生少々反身(そりみ)になる。「元来円とか直線とかいうのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」「ないもんなら、廃(よ)したらよかろう」と迷亭が口を出す。「それで先ず実験上差(さ)し支(つかえ)ない位な球を作って見ようと思いましてね。先達てからやり始めたのです」「出来たかい」と主人が訳のないようにきく。「出来るものですか」と寒月君がいったが、これでは少々矛盾だと気が付いたと見えて「どうも六ずかしいです。段々磨(す)って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持(こころもち)落すと、さあ大変今度は向側が長くなる。そいつを骨を折って漸く磨り潰(つぶ)したかと思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いが出来ます。始めは林檎(りんご)ほどな大きさのものが段々小さくなって苺(いちご)ほどになります。それでも根気よくやっていると大豆ほどになります。大豆ほどになってもまだ完全な円は出来ませんよ。私も随分熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ」と噓(うそ)だか本当だか見当のつかぬところを喋々(ちょうちょう)と述べる。「どこでそんなに磨っているんだい」「やっぱり学校の実験室です、朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」「それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいといって毎日日曜でも学校へ行くのはその珠(たま)を磨りに行くんだね」「全く目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」「珠作りの博士となって入(い)り込みしは――というところだね。しかしその熱心を聞かせたら、如何(いか)な鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然老梅(ろうばい)君に出逢ったのさ。あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねといったら先生妙な顔をして、なに本を読みに来たんじゃない、今門前を通り掛ったらちょっと小用(こよう)がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだといったんで大笑をしたが、老梅君と君とは反対の好例として『新撰(しんせん)蒙求(もうぎゅう)』に是非入れたいよ」と迷亭君例の如く長たらしい註釈をつける。主人は少し真面目になって「君そう毎日々々珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元来いつ頃出来上るつもりかね」と聞く。

     ◇

 【珠作りの博士となって入り…

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