夏目漱石「吾輩は猫である」22

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 東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と主人も負けずに済ます。「御承知の通り、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油を注(さ)す。「同志だけがよりまして先達てから朗読会というのを組織しまして、毎月(まいげつ)一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、既に第一回は去年の暮に開いた位であります」「ちょっと伺って置きますが、朗読会というと何か節奏(ふし)でも附けて、詩歌(しいか)文章の類を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです」「まあ初めは古人の作からはじめて、追々(おいおい)は同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というと白楽天(はくらくてん)の『琵琶行(びわこう)』のようなものででもあるんですか」「いいえ」「蕪村(ぶそん)の『春風馬(しゅんぷうば)堤曲(ていきょく)』の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「先達ては近松(ちかまつ)の心中物をやりました」「近松? あの浄瑠璃(じょうるり)の近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戯曲家の近松に極っている。それを聞き直す主人はよほど愚(ぐ)だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を叮嚀(ていねい)に撫(な)でている。藪睨(やぶにら)みから惚(ほ)れられたと自認している人間もある世の中だからこの位の誤謬(ごびゅう)は決して驚くに足らんと撫でらるるがままに済していた。「ええ」と答えて東風子は主人の顔色を窺(うかが)う。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を極めてやるんですか」「役を極めて懸(かけ)合(あい)でやって見ました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。白(せりふ)はなるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚(でっち)でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ衣装と書割(かきわり)がない位なものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったと仰しゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて芳原(よしわら)へ行くとこなんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾ける。鼻から吹き出した日の出の烟りが耳を掠(かす)めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです、登場の人物は御客と、船頭と、花魁(おいらん)と仲居(なかい)と遣手(やりて)と見番(けんばん)だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えて先ず質問を呈出した。「仲居というのは娼家(しょうか)の下婢(かひ)にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋(おんなべや)の助役見たようなものだろうと思います」東風子は先っき、その人物が出て来るように仮色(こわいろ)を使うといったくせに遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に隷属するもので、遣手は娼家に起臥する者ですね。次に見番というのは人間ですかまたは一定の場所を指(さ)すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司(つかさ)どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢(とんちんかん)なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。

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