第2回筋トレだってする、吹奏楽部はスポーツ部? 歴史に答えを求めると…
【連載】すいエンス!吹奏楽を科学する
毎年、各地で熱演が繰り広げられる吹奏楽コンクール。「あるある」や悩みを科学的に掘り下げてみました。
課題曲や自由曲の一糸乱れぬ演奏を完成させるため、練習はハード、長時間に及ぶ。何なら筋トレもする。すべてはコンクールに向けて。そんな日々を過ごす吹奏楽部の部員は時に口にする。
「私たち運動部みたいなもんだし」
果たして吹奏楽部は文化部なのか、実は運動部なのか。
吹奏楽部にまつわる長年の謎の解を求め、「スポーツ原論―スポーツとは何かへの回答」(ナカニシヤ出版)などの著書があり、部活動の研究もしている関朋昭・鹿屋体育大教授(経営学)に聞いた。
関さんは「1940年が、吹奏楽部の性質の分水嶺(ぶんすいれい)だったと考えられます」と話す。どういうことなのか、吹奏楽部の歴史をひもといてみる。
「日本の吹奏楽史 1869―2000」(青弓社)や関さんによると、1884年に高知県の海南学校(現県立高知小津高校)で喇叭(ラッパ)隊などが結成された。このころ、軍事教練などのために各地の学校に音楽隊が誕生した。
「吹奏楽」が広がったのは…高校野球から?
1911年に楽隊部を設立した京都府立第二中学校(現府立鳥羽高校)は、後に「夏の甲子園」となる第1回全国中等学校優勝野球大会(1915年)で優勝。同校の応援演奏がきっかけともなり、全国の学校に吹奏楽が広まったという。
当時、学校の運動や演奏といった活動組織は一般的に、生徒や教職員で組織する校友会が運営を担っていた。校友会の中では、運動部は他校などとの対抗試合を含む活動をするものと位置付けられていた。
吹奏楽部は対抗試合がなく、運動部の応援をする組織として、文化部とみなされていた可能性が高いという。
1940年に何が変わったのか。
吹奏楽の普及とともに、各地で吹奏楽連盟が結成され、1939年に全日本吹奏楽連盟が発足。翌年には第1回全日本吹奏楽コンクールが開催された。
関さんは「吹奏楽部の活動が、コンクールという『対抗試合』へと軸を移していきました」と説明する。
コンクールに向けた厳しい練習や、出場メンバーのセレクションといった過程は、運動部の特徴と類似している。
こうした性質の変化によって、吹奏楽部は文化部なのか運動部なのかという問いが生じたとみられる。
この問いを関さんが研究する動機となったのが、冒頭のように、吹奏楽部が運動部だと自負したり、そう認識されることを喜んだりする学生の存在だった。
関さんは関心を抱くとともに、研究を進めるうちに危惧を覚えたという。
運動部と文化部に優劣があるという意識がうかがえるからだ。
研究者が思う、大切にしてほしいこと
関さんは「過去には、活動の日数や内容から、運動部に優等性を見いだす研究もありました」と話す。
運動部の出身者はあいさつや上下関係に厳しく、忍耐力があるという認識は広く流布しており、就職活動などにも影響している。
「経済成長だけを追求していた一時代前ならまだしも、多様性が尊重される今、運動部、文化部を優劣でみるのはそぐわない」
勝利至上主義から離れた部活動などもある中、関さんが出す答えは「運動部と文化部に二分されるものではなく、『部活動』としてしか、くくりえない」。
実際に部活動研究の現場では、特にスポーツを強調する場面以外では、運動部や文化部といった呼び方は減っているという。
関さんは部活動に励む学生たちについて、「何部であっても、好きで始めたはず。分類にとらわれず、初心を大切に持ち続けてほしい」と願っている。(野中良祐)
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