調査80年、見えてきた布留遺跡 「物部氏の拠点」研究成果発表

今井邦彦
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 古代豪族・物部(もののべ)氏の活動拠点と推定されている奈良県天理市の布留(ふる)遺跡をめぐり、考古学者らが最新の研究を発表する講演会「ここまで判(わか)った布留遺跡」(天理市観光協会主催)が、17日から2日間、同市杣之内町のなら歴史芸術文化村で開かれた。80年以上続いてきた同遺跡の発掘調査の成果が報告され、来年には研究の集大成的な論文集が刊行されることも発表された。

 布留遺跡は現在の天理教本部の周辺に東西約2キロ、南北約1・5キロにわたって広がる集落遺跡。1938年以降、県や天理市、埋蔵文化財天理教調査団などが35次にわたって発掘調査をし、旧石器時代から江戸時代まで様々な時代の遺物や遺構が見つかった。これまでの調査・研究の成果を本にして刊行するため、約50人の研究者が2年前から準備を進めてきた。

 布留遺跡を拠点とした物部氏は、ヤマト王権の軍事面を担った氏族。同遺跡の東端に位置する石上(いそのかみ)神宮は物部氏の氏神で、王権の武器庫でもあったとされる。同神宮には明治時代、境内の禁足地で出土した刀剣8本が伝わっており、講演会では大阪府交野市教育委員会の真鍋成史さんが、これらの刀剣が布留遺跡で作られた可能性を検討した。

 布留遺跡では鍛冶(かじ)工房のほか、木や鹿の角で作られた刀装具が多数出土しており、刀剣が生産されていたのは確実だ。真鍋さんは布留川南岸の地域では大型の砥石(といし)が出土していることに注目し、禁足地出土とされる全長1メートル前後の大型刀剣も同遺跡で製作され、メンテナンスを受けていた可能性があると指摘した。

 「日本書紀」によると、物部氏は5世紀には天皇(大王)を補佐する大連(おおむらじ)を務めたとされる。天理大の小田木治太郎(はるたろう)教授は、布留遺跡の南に位置し、今は墳丘がほとんど失われた焼戸山(やけどやま)古墳に注目。1946年の航空写真に写った地形の痕跡から、全長約150メートルの前方後円墳だったと推定した。すぐ近くの西乗鞍古墳(5世紀後半、全長約118メートル)がヤマト王権の大王墓に次ぐクラスの古墳として注目されているが、焼戸山古墳はそれより大きく、時期も古い可能性があるという。

 6世紀後半に大連を務めた物部守屋は蘇我馬子聖徳太子と対立し、587年に滅ぼされた。しかし物部氏は石上氏と名を変えて存続し、布留遺跡での土器の生産も平安時代前期まで続いた。埋蔵文化財天理教調査団の池田保信主任は「6世紀の布留遺跡の中枢は今の天理大の東にあったようだが、本格的な調査はされていない。今後の天理市や天理大の調査に期待したい」と話した。

 講演会の発表資料集は六一書房(https://www.book61.co.jp/別ウインドウで開きます)が通信販売する。論文集「布留遺跡の様相」は来年5月刊行予定。今井邦彦

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