(社説)憲法公布75年 学術・研究 取り巻く危うさ

社説

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 75年前のきょう、日本国憲法が公布された。国民主権基本的人権の尊重、平和主義を基本原理に掲げ、戦後日本の歩みをつくってきた。

 明治憲法にはなかった規定の一つが、「学問の自由は、これを保障する」という第23条だ。意に添わぬ学説や研究を政府が弾圧し、学者も動員して遂行した戦争の反省を踏まえ、思想・良心の自由や表現の自由などとともに明記された。

 ■交錯する思い

 憲法担当大臣として帝国議会で答弁に立った金森徳次郎は、秦の始皇帝が言論取り締まりのために行ったとされる焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)まで持ち出して、権力が学問・研究に介入する危険を指摘し、23条を設ける意義を説いた。

 当時の人々が戦争の生々しい記憶とともに共有していたこの認識を、いま思い返すことが必要ではないか。

 この夏に公開された「映画 太陽の子」は、戦時中に海軍の委託で、京都帝国大学の荒勝文策教授らが取り組んだ原爆開発のための「F研究」が題材だ。

 膨大なエネルギーを発生させる核分裂は最先端の研究テーマで、別途陸軍も計画を進めていた。しかし物資、技術とも不十分で、F研究の場合、ウランを濃縮する遠心分離機を開発している途中で敗戦を迎えた。原爆の完成にはほど遠かった。

 映画では研究者たちの交錯する思いが描かれる。

 「われわれは物理学の歴史に刻まれる」「戦場の仲間のことを思うと、何も役に立てていない」「俺らがやっていることは正しいことか」――。

 戦争に勝つことをめざしつつ、研究とは何か、核開発が何をもたらすかを考え、戦争が終わった後の研究体制にも思いをはせていた。

 ■「役に立つ」のわな

 この「学問の自由」、そして政治と研究の関係に、昨年来、多くの人の目が注がれた。

 きっかけのひとつは、新型コロナ禍だ。

 感染防止策を講じつつ社会や経済をどう維持するか、ある程度の試行錯誤があるのはやむを得ない。不信を招いたのは、専門家の見解や提言のうち、自らの施策に役立つものは採り入れ、そうでないものには耳を貸さないという、政治のご都合主義だ。社会や財政の事情も勘案して総合的な判断を下すのが政治の役割だが、科学をつまみ食いし、隠れみのにするのは責任逃れにほかならない。

 唐突な一斉休校、GoTo事業の強行、緊急事態宣言下での五輪の開催……。責任の所在があいまいなまま、市民の健康と生活が危機にさらされた。

 そしてコロナ禍の渦中に持ちあがったのが、日本学術会議会員の任命拒否問題だ。

 いまだに政府は理由を説明せず、議論自体を拒む。そこから見えるのは、政権に異を唱える研究者に制裁を加え、学術会議、さらには学界全体をコントロール下におき、自分たちの「役に立つ」存在に変えていこうという思惑である。

 政府は、大学などに支出する資金を削る一方、防衛省に予算をふり向け、安全保障に「役に立つ」研究への参加を促してきた。こうした方針に協力的でない学術会議を敵視し、人事や組織改革で揺さぶりをかけてきたのは明らかだった。

 技術には二面性がある。戦争のため開発されたものが、後に民生分野でいかされた例は数知れず、その逆もある。安全保障の要請も無視できず、軍事研究に理解を示す声は国民の間にもある。難しい問題だからこそ、歴史に学ぶ知恵が必要だ。

 「F研究」の荒勝教授らの事跡をまとめた政池明・京大名誉教授は言う。

 「純学問的な研究に海軍の援助を受けていたので、大戦末期に原爆の可能性を探る研究を断り切れない状況にあったと思われる。いまの学者も、研究の応用先と資金の出所に細心の注意が必要だ」

 心すべき指摘だと思う。

 ■研究者の責務とは

 「役に立つ」ことを学問・研究に求める姿勢は、「選択と集中」のかけ声とともに近年急速に強まっている。

 予算やポストを得るには、国が推進する政策に沿い、早期に成果が出そうなテーマを設定するのが有利で、その実績が研究機関や学者の評価につながる。

 むろん事故や災害、病気を防ぎ、生活を豊かにする研究は重要だ。しかしそこでも思考停止は禁物だ。研究が何を生み、何をもたらすかを見極め、必要に応じて異を唱えることは、研究に携わる者の責務である。

 あわせて、社会を一変させるような発見や技術革新には、既存の研究の延長にとどまらない発想が求められることも忘れてはならない。成果にとらわれない地道な基礎研究がその土台であり、これを軽んずれば将来の芽を摘むことになる。

 学問・研究に対する正しい理解を欠く政治のうえに、豊かな社会は到来しない。23条が説くところをかみしめたい。

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