高速レース、五輪登竜門の歴史 福岡国際マラソン、今年で終了

 福岡国際マラソン選手権が今年12月5日の第75回大会を最後に幕を閉じることになった。先月のびわ湖毎日マラソンの終了に次いで、また一つ伝統の大会の灯が消える。▼1面参照

 1947年に金栗賞朝日マラソンとして熊本で産声をあげた大会は、59年から福岡での開催が定着し、地元では「師走の風物詩」として愛されてきた。66年からは、国際陸連(現世界陸連)が後援し、「選手権」の称号を得た。

 67年にデレク・クレイトン、81年にはロバート・ドキャステラの豪州勢によって世界最高記録が生まれ、高速コースとしても評価された。ミュンヘン五輪金メダリストのフランク・ショーター(米)や、最近では、後に北京五輪で金メダルを取るサムエル・ワンジル(ケニア)も走った。日本勢にとっては五輪などの代表選考会となり、瀬古利彦や宗茂、猛兄弟の全盛期には「福岡」で“一発勝負”という雰囲気が生まれた。今夏の東京五輪代表となった大迫傑、服部勇馬もここを足がかりにした。2020年には「世界陸上遺産」に認定された。

 日本のマラソンは男女ともにエリート大会が中心となって発展してきた。一方、海外では1970年代のニューヨークシティー・マラソンの成功をきっかけにベルリン、シカゴ、ロンドンと、エリート選手と市民がともに走る数万人規模の大会が主流となった。

 日本では交通事情もあり、こうした大会はなかなか実現しなかったが、2007年に東京マラソンが始まってからは状況が一変。マラソンが「見る」から「やる」スポーツに転換、各地で大規模な大会が開かれるようになった。

 こうした流れはトップ選手にも影響を与えている。

 世界陸連は08年から世界のロードレースを、参加人数や出場選手のレベル、国際放送の中継国数などで格付けをしている。昨年は「プラチナ」「ゴールド」「シルバー」「ブロンズ」の4段階があり、日本では東京マラソンと名古屋ウィメンズが「プラチナ」に、福岡国際は「ゴールド」にランクされた。ランクによって賞金額や世界ランキングの順位ポイントが違ってくるため、トップ選手が格付けの高いレースに出場する傾向が強まっている。

 エリート大会は参加人数が少ないため、参加料による収入は多くを望めない。加えて、出場選手の顔ぶれで注目度が左右されるため、スポンサーやテレビ局にとっても難しい面があるのは否めない。福岡国際も市民マラソン化を模索した時期もあったが、実現しなかった。横浜国際女子、びわ湖毎日、そして福岡国際と、エリート大会の終了は現在のマラソンの情勢を色濃く映している。(堀川貴弘)

 ■瀬古さん「育てられた。寂しい」

 福岡の街を盛り上げた名ランナーからは、大会終了を惜しむ声が上がった。

 大会最多タイとなる4度の優勝を果たした瀬古利彦さんは「福岡国際マラソンに育ててもらったという思いがあるので、私自身の歴史もなくなってしまうような気がして、すごくさびしい」とコメントした。

 中でも思い出に残るのは「モスクワ五輪代表の座もかかった1979年」だ。宗茂さん、猛さん兄弟と3人で競い、ゴールの平和台陸上競技場までもつれた。瀬古さんは「40キロから一度は置いていかれたけれど、追いついて優勝できた劇的な展開でした」とした。

 「福岡国際は世界一を決める大会だった。なくなるのは残念」と猛さんも悲しんだ。80年モスクワ五輪と84年ロサンゼルス五輪の出場権を手中にしたのもこの大会で、「思い入れは強かった」。最後の大会に向けて、「(同じく最後の大会で日本新記録が出た2月の)びわ湖のようにまたいい記録が出るんじゃないですかね」と期待を寄せた。

 昨年の大会まで11回出場している川内優輝選手は「選手、スタッフ、観客すべての人が真剣、本気のところ」と大会の魅力を語り、「他のエリート中心の大会への影響が気になります」と心配した。

 ■福岡国際マラソン選手権の歩み

 <1947年> 五輪マラソンに3回出場した金栗四三氏の功績をたたえ、「金栗賞朝日マラソン」の大会名で金栗氏の郷里である熊本で第1回がスタート

 <55年> 大会名称が「朝日国際マラソン」となり、外国選手を招待

 <59年> 日本各地を巡って開催されていた大会が、この年から福岡に定着。平和台陸上競技場発着に

 <66年> 日本陸連が「世界マラソン選手権」にしたいと要望。国際陸連(現世界陸連)は単一種目の世界選手権は認めなかったが、「世界でなく国際なら」と「国際マラソン選手権」という名称に

 <67年> デレク・クレイトン(豪)が世界で初めて2時間10分を切る2時間9分36秒4の世界最高で優勝

 <74年> 1972年ミュンヘン五輪を制したフランク・ショーター(米)が大会4連覇を達成。大会名称は現在の「福岡国際マラソン選手権」に

 <79年> モスクワ五輪代表選考会。瀬古利彦(早大)、宗茂、宗猛(ともに旭化成)が3位までを独占したが、五輪ボイコットで幻の代表に

 <81年> ロバート・ドキャステラ(豪)が2時間8分18秒の世界最高記録を樹立

 <87年> ソウル五輪選考会。「福岡一発勝負」の合意があった中で、瀬古が欠場。氷雨の中、中山竹通(ダイエー)が驚異のハイペースで飛ばして優勝

 <00年> 藤田敦史(富士通)が2時間6分51秒の日本最高で優勝

 <04年> 参加資格記録を2時間50分以内としたBグループ新設。門戸を広げた

 <09年> ツェガエ・ケベデ(エチオピア)が現大会記録となる2時間5分18秒で優勝

 <18年> 服部勇馬(トヨタ自動車)が2時間7分27秒で日本選手として14年ぶりの優勝…

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