(社説)震災の遺構 二つの思いの葛藤抱え

社説

[PR]

 悲惨な出来事を思い出したくない。だが忘れることはできないし、忘れて欲しくない。

 この9年間、東日本大震災の被災者は二つの思いの中で葛藤を重ねてきた。いわゆる震災遺構をめぐる議論はその象徴だ。

 宮城県気仙沼市気仙沼向洋高校の旧校舎には、開館1年で約8万4千人が訪れた。

 津波は4階にまで達した。生徒はその前に高台に避難し、残った教職員も屋上に逃げてかろうじて助かった。流されてきた冷凍工場がぶつかって崩れた外壁、ひっくり返ったままの教室内の車など、一つひとつが津波の脅威を後世に伝える。

 半面、こうした遺構は被災者につらい記憶を呼び起こす。保存か解体かをめぐり、住民の意見が割れることもある。

 石巻市の旧門脇(かどのわき)小は、車やがれきが炎上した「津波火災」を伝える数少ない建物だ。市は保存を考えたが、震災4年後に地元出身者を対象にしたアンケートでは、解体を望む意見が半数を占めた。これを踏まえ、校舎は一部だけ残し、周囲に植栽を施して、住宅地から目に入らないようにすることにした。

 だが工事が近づくと、今度は保存の訴えが多くあがった。津波と火災はどう襲ってきて、住民はどう逃げたのか、全体が残っていないと伝わらないとの指摘だ。「復興が進むにつれて考えが変わった」。住民説明会ではそんな意見も出た。結局、計画は維持され、解体作業が昨秋始まり、今月で完了する。

 震災の記憶が鮮明で生活もままならない時とその後とでは、被災者のとらえ方も微妙に異なる。建物は壊してしまえば元に戻せない。一方で住民の思いとの間に溝を抱えたままでは、遺構として整備しても目的である教訓の伝承に支障をきたす。

 南三陸町も同じ悩みに直面した。被災した防災対策庁舎を解体する方針を決めたが、町内外からの反対の声を受け、31年まで結論を先送りすることにした。判断を急がず、次の世代に委ねるのは一つの知恵かもしれない。広島の原爆ドームも保存が決まったのは、被爆から20年以上が過ぎてからだ。

 遺構を残す意義は、記憶と教訓を目に見える形で土地に刻むことにある。多くの犠牲者を生んだ石巻市の旧大川小校舎も残されることになり、周辺整備事業が近く始まる。震災伝承ネットワーク協議会によると、案内員や語り部がいる伝承施設は東北の被災4県で40を超す。

 地震に限らない。噴火や風水害でも、何を、どうやって次代に引き継ぐかは、今を生きる世代の責務だ。東日本大震災の被災地の悩みや試行錯誤もまた、将来への大切な教訓となる。

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら