オウム真理教に対する捜査は、どのような判断でどう行われたのか。警察庁刑事局長として、捜査全体を掌握できる立場にいた垣見隆氏(82)の証言をもとに、未曽有のテロ事件が起きるまでの警察の動きをたどる。
「松本サリン事件の前にオウムが機関誌でサリンに言及している」
1994年8月8日、都道府県警を指揮監督する警察庁。当時刑事部門トップの刑事局長だった垣見隆氏の証言によると、89年に発生した坂本堤弁護士一家行方不明事件(後に殺害事件と判明)でオウム真理教の関与も視野に捜査していた神奈川県警磯子署捜査本部の担当者からの情報だった。
8人が死亡、600人以上の重軽症者が出た松本サリン事件が起きたのは約1カ月半前の94年6月27日。長野県警の捜査でこの事件とオウムの関係性が浮上し、垣見氏はオウムの危険性を認識し始める。刑事局内で本格的な検討が始まった。
9月6日に刑事局捜査1課の広域捜査指導官室にオウムの専従班を設置。その約1カ月後には、全国の都道府県警にオウムに関する事案を報告させる第1次全国調査を行った。事件にできる事案がどこかの警察で埋もれていないか、オウムに切り込む端緒を得ようとした。家出人捜索願などに加え、暴行や逮捕監禁など事件関係も含め計85件が把握されたが、直ちに事件化できる事案はなかったという。
同じ頃に、長野県警が山梨県上九一色村(当時)の教団施設周辺で土壌を採取。「7月ごろに異臭事案があった」との情報が磯子署捜査本部から寄せられたためだった。
11月16日、警察庁科学警察研究所の鑑定で、採取した土壌からサリン生成時にできる残留物を検出したとの結果が出た。サリンの原材料を教団関連会社が購入していたことは捜査で既に判明していた。これと合わせ、オウムとサリンのつながりが決定的となった。
■分岐点になり得た動き…